昨年のクリスマスイブ、下のオスガキが肺の気胸手術を受けた。気胸症は、成長期の若い子(特に男性)にときどき見られる症状らしいのだが、人間の肺は26歳まで成長しつづけると聞いて驚いた。気胸は、肺の上部にブラと呼ばれる気泡のような炎症ができ、それが破裂すると肺の空気が体内へ漏れてしまうという症状なのだが、25歳あたりをすぎると発症する確率がグンと下がるので、成長期疾病のひとつといわれることが多いらしい。
 気胸のブラができると、激しい運動を控えなければならなくなり、また破裂する可能性が高まる気圧の低い山や高原などですごしにくくなる。放っておいても、身体が成熟するとともにブラが自然に融着して治ってしまうことも多いそうだが、それほど難しい手術ではないため思い切って受けることにしたようだ。いまの技術では、胸の横から小さな穴を開け、先端にメスのついた器具でブラを切り取り穴をふさぐ方法が用いられ、手術自体はおよそ1時間ほどで済んでしまう。術後、麻酔が抜ける翌日にはもう歩けるので、数日で退院する人もいるようだ。
 入院したのは、戸山ヶ原Click!の東端に建つ国立国際医療センターなのだが、この病院はもちろん、戸山の軍医学校に隣接して建っていた、陸軍の旧・第一衛戍病院→旧・東京第一衛戍病院→旧・陸軍東京第一病院(ここまでが戦前)→旧・国立東京第一病院(戦後)の今日的な姿だ。戦前戦後を通じて、東京でも最大クラスの医療施設であり、日本医療の最先端技術を備えたトップクラスの病院だ。また、医師や看護婦(師)さんたちが非常に親切かつていねいで、このあたりの地元ではとても感じのいい病院として、評判が高いことでも知られている。
 昭和初年から建設をはじめ、1929年(昭和4)10月に鉄筋コンクリートの巨大な東京第一衛戍病院Click!が竣工するのだが、大久保射撃場Click!や軍医学校、陸軍戸山学校(幼年学校)などとともに膨大なセメントや玉砂利などの建築資材が必要だったことは、陸軍の鉄道第二連隊が敷設した西武電鉄Click!の軍需利用Click!とともに、これまで何度も記事に書いてきた。西武電車の開業と相前後して、高田馬場駅Click!の南東に拡がる広大な戸山ヶ原に、巨大なコンクリート建造物が次々と増えていくのは、秩父や多摩川方面からの軍需貨物(建築資材)の搬入を、開業前の西武線上を貨物列車が往来する地元の目撃証言はもちろん、国立公文書館に残された陸軍資料Click!における西武鉄道と陸軍省との密接な関係を考慮すれば、どうしてもそう想定せざるをえない。
 
 
 夏目漱石Click!の実家跡、安倍能成Click!の揮毛による記念碑から夏目坂Click!を上がっていくと、戸山ヶ原の東端には軍医学校につづき東京第一衛戍病院の病棟が連なっていた。ここは、森林太郎(森鴎外)が陸軍軍医総監として勤務していた“現場”としてもつとに有名であり、国立国際医療センターには彼の執務机や当時の顕微鏡、カルテなどが保存されている。
 わたしは子供の見舞いがてら、鴎外の記念品見たさに「まだ新館に移されていなければ、たぶん旧館の寂しい廊下にそのままあるかも・・・」と医師に教えられ、「寂しい」という言葉がひっかかったけれど、すでに入院施設がすべて新館へ移転したあとの旧館へと入っていった。いまや、外来の一部と研究施設しか残されていないガランとした旧館は、休日だったせいか開いているのは地下のカフェやレストランだけで、他のフロアは電気が消されていて真っ暗だった。
 旧館の入院病棟は現在、敷地の南西部に完成したばかりの16階建て最新病棟にすべて移されており、外来の各診療科の施設も徐々に新館へと引っ越しのまっ最中だ。森鴎外の記念品は、旧館1階西側にあるエレベーター脇の廊下に展示されているという。医者に教えられたエレベーターに地下から乗り、展示されているはずのフロアに着いたとたん、わたしはすぐに「ゲゲッ」と後悔した。エレベーターの扉が開くと、眼前には照明がひとつも点いていない真っ暗闇が拡がっていたからだ。目が少しずつ馴れてくると、まるで「ほん怖クラブ」の再現ビデオか心霊スポット探訪映像のような、古い病院の廊下が前と背後に長くつづいていた。東京でもっとも古い、明治期の陸軍に由来する大きな病院の廊下だ。少なからず気味(きび)の悪さをおぼえても、別に不思議はないだろう。
 
 
 鴎外の記念品などは、幸いにもエレベーターのすぐ右脇廊下の両側に、古ぼけたケースやパネルとともに展示されており、人っ子ひとりいない真っ暗な廊下を長時間歩かずに済んだ。ケータイの照明で、ボッと浮かびあがるパネルの写真や説明文を大急ぎで読みながら、戦前のコスチュームを着た看護婦や傷痍軍人たちがユラユラ青白く光ながら、リノリウムが剥離してあちこち浮き上がった廊下の向こうから、ヒタヒタと微かな足音をさせてやって来ないうちに、フラッシュ撮影をしてさっさと引き上げることにする。撮影した写真は、どれも薄暗い画面ばかりとなってしまったが、なんとか説明文の文字は読み取れる。鴎外の記念品のほかにも、ビキニ環礁の水爆実験で被曝した第五福竜丸の大きな模型と入院した乗組員たちの記録、ルバング島で発見された「小野田少尉」の入院記録、明治期のカルテや記録などが展示されていた。
 国立国際医療センターは、陸軍の旧・東京第一衛戍病院とまったく同じ、大きな三角形の敷地の上に建てられている。上物のビルこそ建て替えられているけれど、敷地の内外にはいまだあちこちに戦前のコンクリート建築の名残りを見ることができる。「陸軍」と名前は付いていたが、第一衛戍病院の時代から一般の患者も診察しており、今日の飯田橋にある警察病院と同じような概念と役割をはたしていた。戸山ヶ原には陸軍の施設が集中していたため、1945年(昭和20)には米軍により繰り返し激しい空襲を受け、軍医学校とともに同病院も被災した。戦後、1945年(昭和20)12月に同病院は厚生省の管轄となり、国立東京第一病院と名前を変えて再スタートしている。
 国立国際医療センターの北東部に当たる軍医学校の跡地、国立感染症研究所の工事現場から1989年(昭和64)、人体標本とみられる加工や手術跡が残る日本人ではない人骨が100体Click!を超えて出土した。当初は、関東軍防疫給水部隊の人体標本が疑われて調査されたが、結局は明確な規定ができないまま終わっている。ところが現在、同医療センターの北側に建っていた公務員住宅や駐車場が解体されており、陸軍に勤務していた当時の看護婦たちによる敗戦時の標本埋設証言から、厚生労働省による本格的な発掘調査がスタートしようとしている。この敷地は、軍医学校防疫研究室ビルのすぐ近くで、中国における人体実験で知られる「731部隊」の東京拠点だ。
 
 
 子供の手術は難なく無事に済み、担当女医さんもビックリの回復力でわずか2日後には退院できたのだけれど、昨年は身内や親戚筋でいろいろと不幸つづきだったため、全身麻酔によるアナフィラキシーショックや肺への通管による喘息を心配したわたしは、オペの当日ついガラにもなく早起きして、氷川明神のクシナダヒメ様にお参りをしてから病院の手術室へと向かった。この下落合の情景、ふと気がつけば、わたしが高校生の時代に「下落合で見かけた」シチュエーションなのだが・・・。w

◆写真上:子どもが入院した病室は西南西を向いており、窓外からは新宿駅方向が望めた。手前に見えているのは総理府統計局(統計センター)だが、もとは陸軍砲工学校(のち陸軍科学学校)で、通りをはさんだ北側斜向かいには陸軍戸山学校が建っていた。
◆写真中上:上左は、1936年(昭和11)の空中写真にみる陸軍軍医学校と東京第一衛戍病院。上右は、米軍の空襲により破壊された1947年(昭和22)の空中写真にみる同病院とその周辺。下は、同病院から眺めた代々木・渋谷方面(左)と、飯田橋(大曲)から後楽園方面(右)。
◆写真中下:上左は、国立国際医療センターに完成したばかりの新病棟。上右は、戦前の東京第一衛戍病院。下左は、森鴎外が陸軍医務局長時代に使用していた執務机。下右は、1909年(明治42)に撮影された医務局長時代の鴎外で、ちょうど文展西洋画部門の審査員をしていたころ。
◆写真下:上は、国立国際医療センターのあちこちに残る陸軍時代のコンクリート塀や築垣。下は、未明の下落合氷川明神社(左)と、国際医療センターから眺めた夜明けの新宿駅方面(右)。

★1974年(昭和49)2月23日(土)に放映された『さよなら・今日は』Click!(第21回)の「予告編」は、愛子(栗田ひろみ)の手術成功を願い夜明けの下落合氷川明神へお参りする、夏子(浅丘ルリ子)と緑(中野良子)のシーンからスタート。上掲の写真は、第一衛戍病院時代の1904年(明治37)12月9日に作成された、ドラマと同じ心臓病の「僧坊弁閉鎖不全症」のカルテ。人工心肺によるオペなど存在しなかった時代、発作を繰り返す重症3度以上の患者はおそらく助からなかっただろう。
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