下落合の上戸塚をはさんだ南側、柏木・大久保地域には明治期より、社会主義者あるいはアナーキスト、キリスト者たちが数多く住んでいた。以前、このサイトでも官憲からの呼称として、社会主義者たちの「柏木団」Click!や「本郷団」の話はご紹介している。たとえば、幸徳秋水や堺利彦、森近運平、大杉栄Click!、神近市子、山川均、荒畑寒村、守田有秋、福田英子、内村鑑三Click!、南助松、石川三四郎・・・などなど、多彩な顔ぶれがそろっている。彼らはなにか祝事があるたびに、角筈十二社Click!の池ノ端に並んでいた料亭でよく園遊会を開いていた。
 大内兵衛も、大久保百人町Click!に長く住んでいた。大内は、思想弾圧により東京帝大から二度追放されているが、二度とも無事に復職している。一度めは、1920年(大正9)の森戸助教授筆禍事件に連座してクビになり、大原社会問題研究所(現・法政大学内)へ転職したが、その後特赦で助教授に復職。二度めは、1938年(昭和13)に人民戦線事件の教授グループのひとりとして特高警察に検挙され投獄、1945年(昭和20)の敗戦とともに東大教授へ復職している。
 東京大学からの依頼で、安井曾太郎Click!が定年退職の記念に肖像画を描くことになり、大内兵衛は大久保の自宅から下落合へと通ってくる。このとき、大内を安井アトリエへと案内したのは、なんと向坂逸郎と鈴木鴻一郎だった。経済学をかじった方なら、これらの名前には特別の感慨を抱くのではないだろうか。膨大なマル経(マルクス経済学)関連の著作とともに、マルクス・エンゲルスの著作集あるいは全集の代表的な翻訳者(岩波書店など)としてもつとに有名だからだ。資本主義経済(産業資本主義段階)の本質を本格的に分析・解説した『経済学批判』(通称『資本論』)の第1巻は、経済学を学ぶうえで必須の基礎的な課題図書の1冊だ。
 大内兵衛の安井アトリエ通いは、1948年(昭和23)6月9日にスタートし26日に終了している。おそらく、百人町からほぼ毎日下落合まで通い、モデルをつとめたあと定年間近の東京大学へ通勤していたのだろう。『Profile by YASUI SOTARO』図録(ブリジストン美術館/2009年)からの孫引きで、1969年(昭和44)出版の大内兵衛『忘れ得ぬ人びと』(角川書店)から引用してみよう。
  ▼
 六月の九日午前私は向坂逸郎君と鈴木鴻一郎君に連れられて目白の安井さんを訪ねた。お宅は昔の近衛さんの分譲地の西の一角、ウッソウたる森の中にある。古ぼけた八畳のお座敷には無造作に物がおかれ床の間には中国人の岩と花との軸がかかっている。安井さんは髪はややうすいが血色はよい。童顔だ。着古したツメエリの麻の服を着ている。初対面のアイサツがあって、すぐ素人の画論が展開された。こちらはずいぶんよくしゃべるけれども先生はなかなか口が重い。が答は正確で含蓄が多い。ニッコリと笑ってしばらく考えて、わずかなコトバを吐き出すとき、二重まぶたの目にはやさしさがこぼれる。話がはずんで、頭をあげて呵々として大笑するときは、たくわえているヒゲの下の、やや歯並のあらい口が大きくあく。顔全体が爆破して、同時に大きい声が部屋一杯になる。/客間は西向きで庭は大きい谷の上にある。庭にはクヌギとハゼの巨木が茂ってうすぐらく、手入れをしない熊笹の垣根の先はもう急な一面の坂である。坂は何百尺であろうか底は見えない。ただセンカンたる水音が聞こえてくるだけである。
  ▲

 大内は、安井の人物像を細かく観察しているが、安井アトリエの様子も仔細に記している。邸やアトリエの西側に口を開けていた林泉園Click!からつづく谷戸の、谷底が見えないほど深く切り立った渓流の情景が記録されている。この流れは、途中で御留山Click!からの湧水と弁天池Click!あたりで合流し、旧・神田上水(現・神田川)へと注いでいた。つづけて、大内の証言を聞いてみよう。
  ▼
 アトリエへは下駄をはいて木下闇をふんで行くのである。アトリエは二十畳ぐらいである。想像したように完成した絵、描きかけの絵などは一枚もない。北側全体がスリガラスであり、私はその方を向いてイスにすわった。そのとき、安井さんは、エンピツをとりあげいろいろの側から私を見た。そして短い時間のうちに、左向き、右向き、正面、側面などのデッサンを作った。いずれもかんたんな線描であるが、私によく肖ているようである。あくる日も同じようなことを繰り返した。
  ▲
 しかし、大内は日ごろの仕事による疲れからか、静養先(箱根)からもどった6月26日、モデルをつとめる最終日に居眠りをしてしまったようだ。この日は、旅先へネクタイも忘れてきており、かなり疲労がたまっていて、いつになくボーッとしていたのだろう。大内はこの時期、東京大学の通常勤務に加え、日本銀行の顧問として戦後に起きたハイパーインフレーションの危機的な経済状況を急速に抑えこむため、日夜、効果的な金融政策の立案・実施に取り組んでいたのだ。ケインズによる近代経済学(初期のマクロ経済学)=『一般理論』が、文字通り一般化していない当時の日本で、おそらく大内たちは試行錯誤の繰り返しだったのではないか。同図録からの孫引きで、1951年(昭和26)発行の『文藝春秋』4月号に掲載された、安井曾太郎「私の描いた肖像画」から引用してみよう。
 
  ▼
 絵が大分出来て、あともう一日来てもらへばよいことになり、その前二日は大内さんが箱根へ行かれるのでお休みになつて、その日は箱根からお宅へは帰らず、直接に私の方へ来て下さつた。早速アトリエへ入つて描き出して見ると大内さんのネクタイがない。ネクタイを箱根の宿に忘れて来られたらしい。そして旅のつかれもあつたか、大内さんには珍しく居睡りを始められた。普段ならば私は平気なのだが、最終の日だつたので、少々困つた。しかしあの謹厳な大内さんにもこの芸術味があることを知つて私は大変嬉しくもあつた。最近大内さんは湯河原に暫く静養されてゐたので一層お親しくなつた。持物をよくわすれて来られることも聞いて、ネクタイばかりではないと安心した。大内さんは実によい人で、好きである。
  ▲
 モデルを写生し終えた安井は、このあと湯河原のアトリエへこもって加筆・修正し、同作は1950年(昭和25)の第12回一水会展へ『大内氏像』として出品されている。ただし、この絵が大内兵衛の手へ実際に渡ったのは、さらに2年後の1952年(昭和27)だったようで、その後も安井はアトリエで加筆・修正をつづけていたようだ。
 大内兵衛の息子で、同じく東大教授である大内力(つとむ)もまた、大久保百人町に住んでいた。大内力は、父親がテーマとしたフェーズから一歩進み、宇野経済学(宇野弘蔵による主に国家独占資本主義段階におけるマルクス経済学)の流れを継承する経済学者だった。余談だけれど現代中国の、共産党政権が強力に主導・牽引する資本主義経済状況を分析するのに、ある側面では国独資マル経が非常に有効そうに感じるのは、なんとも皮肉なことだ。(爆!) 大内力は、1984年(昭和59)に新宿区教育委員会が出版した『地図で見る新宿区の移り変わり-淀橋・大久保編-』(1984年)へ寄稿している。同書の巻末に収録された、大内力「百人町界隈」から引用してみよう。
  ▼
 寒村にはもうひとつ思い出がある。一九三八年(昭和一三)二月、人民戦線事件で父が淀橋署に留置されたとき、私は一高(旧制第一高等学校)の一年生だったが、淀橋署へ差し入れにいった。刑事部屋の片隅で父に面会し少し雑談をした――立会いの刑事にきかれると困ることは習いたてのドイツ語で話をしたりした――が、そのとき別の片隅にひげぼうぼうの目の鋭い痩せた男がいた。はじめは泥棒の親分かと思ったが、よくみればそれが寒村だった。
  ▲
 当時、柏木・大久保地域に住んでいた社会主義者や自由主義者(民主主義者)は、そのほとんどが特高警察に逮捕され、拘置所や刑務所に拘留されていた。
 
 大内兵衛は戦前、常に特高警察Click!から目をつけられていた。安井アトリエへ通ってきたのは、敗戦からわずか3年後、つまり出獄し東大へ復職できてから2年半しかたっていない。東大はかけがえのない人材(才能)のひとりを、戦争で追放してしまっていた。ことさら軍部に媚びて結びつき、戦争へ協力した教授会が総退陣する中、ようやく大内兵衛は復職できたのだが、もはや定年退職まで数年しか残されていなかった。このあと、彼は乞われて法政大学の総長に就任している。

◆写真上:近衛町の下落合1丁目404番地にある、旧・安井曾太郎アトリエの現状。下落合404番地は安井が引っ越してくる前は、岡田虎二郎Click!の自宅跡でもある。
※岡田虎二郎は生前、下落合356番地に住んでいたことがわかり、近衛町の下落合404番地は彼の死後、大正末に家族が転居した住所であることが判明Click!した。
◆写真中上:下落合とみられるアトリエで静物画を描く安井曾太郎。イーゼルが壊れて受け台を上下移動できないのか、水彩パレットを画布と受け台の間にはさんでいるのが面白い。
◆写真中下:左は、1950年(昭和25)制作の安井曾太郎『大内兵衛像』。右は、東大退官ごろの大内兵衛で日銀顧問として敗戦後に起きたハイパーインフレを急速に終息させた手腕も有名。
◆写真下:左は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる下落合404番地の安井アトリエ。右は、1947年(昭和22)の空中写真にみる同邸で、濃い緑に囲まれていたため戦災から焼け残った。