先日、中村彝Click!のアトリエ復元にたずさわる方々とお話をしていたら、とても面白いヒントをいただいた。それは、彝アトリエはどこから電気を引っぱってきていたのか?・・・というテーマだ。わたしは、1921年(大正10)ごろ目白文化村Click!や近衛町Click!の造成がスタートするころから、佐伯祐三Click!の『下落合風景』シリーズClick!あたりまで、下落合に建てられた電柱Click!にはけっこう注目してきたが、大正初期のころの電燈線には、あまり目を向けてこなかったのだ。
 大正期に開発された下落合の住宅街では、目ざわりで景観を台無しにする電柱や電線をなんとかしようとする動きが見られた。その代表的なケーススタディが、目白文化村における共同溝の設置だ。住宅の敷地に沿い、石材を組み合わせて埋設された共同溝Click!には、上下水道のほかに電源ケーブル(電燈線)も同時に埋設され、電柱のないハイカラな大正期の住宅街が出現している。当時の目白文化村を撮影した写真Click!や、同所の一画を描いた佐伯の『下落合風景』Click!には、電柱が存在しないスッキリとした洋風住宅街が記録されている。
 しかし、電燈線ばかりでなく、電気ヒーターや冷蔵庫などの家電Click!が普及しはじめると、より電気供給量の大きな電力線、あるいは電信電話用の通信ケーブルなどを引くニーズが高まると、それらのケーブルをわたす電柱がどうしても必要になり、結局は目白文化村にも変圧器の載った電力線柱や電信柱が設置されていくことになる。特に電話用の通信ケーブルは、加入世帯が増えるたびに追加の架線工事や保守作業が発生し、地下に埋設しては不便きわまりなかったのだろう。
 
 

 さて、旧・下落合の東部では、明治中期から引かれていた電燈線だが、近衛篤麿Click!による近衛邸(旧邸)Click!が建てられたころ、現・下落合の北側には「近衛線」と呼ばれる電柱ルートが出現している。これは、近衛家が東京電燈に資金を提供することで敷設された電燈線ルートだと思われるが、現在の下落合北部に建てられた電柱にも、いまだ「近衛線」という名称がそのまま使われている。一方、下落合の斜面を含む南側では、「氷川線」と名づけられた電柱ルートが現存している。「近衛線」と「氷川線」は、七曲坂Click!上から薬王院あたりのラインを境界にしているようで、おそらくルートの分岐はかなり離れた位置からではないかと思われる。
 落合府営住宅Click!が目白通り沿いに企画される明治末から大正初期にかけ、下落合にはあちこちに電柱(電燈線)が増えていったと考えられるが、1915年(大正4)に御留山Click!に竣工した相馬邸Click!へも、電燈用のケーブル(おそらく「近衛線」の支線)が引きこまれている。相馬彰様Click!からお送りいただいた、『相馬家邸宅写真帖』(相馬小高神社宮司・相馬胤道氏蔵/1915年)に収録された室内写真にも、さまざまな照明器具が見てとれる。
 御留山の庭を見わたせば、庭園灯とおぼしき照明柱までが斜面に設置されているのが見てとれる。しかし、それらの照明へ電力を供給するための送電線、すなわち電燈線ケーブルや、それを支えて中継する補助電柱がどこにも見当たらないのだ。相馬邸の写真類の中で、電柱らしいものが写っているのは、弁天池Click!へと下りる敷地の東側に設置された庭門のすぐ外側だけだ。庭門とその塀沿いに、背の低い2本の電燈線と思われる電柱らしいかたちがとらえられている。しかし、とてつもなく広い邸敷地にもかかわらず、邸内には電線も補助電柱もまったく見られないのだ。

 

 もう一度、相馬邸の外観写真を詳しく観察していたら、あることに気がついた。それは、玄関先といわず母屋周辺、さらに庭園といわず、あちこちの樹木に多数の細長い竹がわたしてあることだ。わたしは最初、樹木の成長や枝葉の拡がりをコントロールする支柱か、あるいは強風で木々が傾くのを防ぐための支えかなにかで、庭を管理する庭師の仕事だと思いこんでいた。しかし、考えてみればおかしな情景も見られる。それは、樹木に寄り添うように地面からかなり太くて長い木材を立て、その上に再び竹を横にわたしてあるような箇所もあるのだ。
 おそらく、相馬家ではせっかく建設している新築邸や、美観を最優先した御留山の庭園に、目ざわりな電線や補助電柱が視界に入りこむのをとても嫌っただろう。でも、電燈線を引きこまなければ照明や家電は使えない。そこで一計を案じ、長い竹の内部の節を抜いて筒状にし、そこへ電線を収容することにしたのではないか。電線を通した長い竹筒は、樹木の幹や枝を利用して邸内各所へわたし、適宜敷地内の各建物へ配線された。また、庭園灯を設置した庭先には、樹木を伝ってエンエンと竹の「橋」が架けられることになった。こうして、広大な相馬邸の敷地から、電燈線および中継用の補助電柱がきれいに“消された”のだろう。
 でも、樹木は成長しつづけるから、ときどきメンテナンスをしないとケーブルが引っぱられて断線の怖れがあっただろうし、その後、電力線用の変圧器が載った大きな電柱は、やはり邸に沿った路上へ建てられただろう。そして、ほどなく電話が相馬邸の各部屋に引かれたときには、通信ケーブルを支える背が低めの電信柱が、邸周辺のあちこちに建てられたのかもしれない。
 
 

 先日、墓参りついでに深川の門前仲町を歩いていたら、街の電柱がほとんど消えているのに気がついた。とてもスッキリとした景観で嬉しいのだが、共同溝を設置する資金や工事がたいへんだったろう。街並みから電柱と電線が消えれば、日本の街並みもそれなりに美しく見えそうなのだが、これだけ進化が速い通信系ケーブルの課題があるとなると、なかなかうまくいきそうもない。

◆写真上:東京電燈時代から、そのままの名称が使われている下落合の「近衛線」電柱。
◆写真中上:上左は、1923年(大正12)初めごろに撮影された目白文化村絵葉書(部分)の第一文化村で、手前にはいまだ電柱が見えているがほどなく共同溝へ埋設される。上右は、佐伯祐三『下落合風景』(部分)に描かれた第一文化村。中は、下落合の主要電線ルートである「近衛線」(左)と「氷川線」(右)。下は、相馬邸の正門「黒門」周辺だが電線も電柱も見えない。
◆写真中下:上は、相馬邸の庭門外に見られる電燈線と思われる電柱かたち。中は、相馬邸表座敷の照明(左)と廊下の照明(右)。下は、玄関の上に設けられた相馬邸応接室の照明。
◆写真下:上は、相馬邸玄関(左)と表座敷(右)の外に見られる竹わたし。中は、居間(左)と前庭(右)の樹木に見られる竹わたし。下は、御留山斜面を庭園灯のほうへ延々と横断する竹わたし。