山岳写真家という言葉はいまでもときどき耳にするが、山岳画家というショルダーはあまり聞かなくなった。山岳風景をアルプスのような高山に登って描いてくる・・・というような仕事は、昔ならなおさら強健な身体やトレーニングを積んだ体力を必要としたことから、そもそも画家の中でもかなり条件が限られてくる。本格的な山岳画家のパイオニア的な存在に、旧・下落合2丁目667番地の第三文化村Click!にアトリエをかまえて住んだ吉田博Click!がいる。
 吉田博Click!は、大正初期から登山をはじめ山岳風景を描きつづけている。当時の山岳は、「登山」という概念さえいまだあまり拡がっておらず、山小屋さえ十分な設備のものは存在しなかった。また、登山用具や装備も貧弱で、たとえば日本アルプスクラスへ登るのであれば、最低でも3人の「人夫」(案内人:今日でいうなら登山ガイドのこと)を雇わなければならず、そう簡単に一般人が出かけられるような場所ではなかった。しかも、天幕(テント)など野営用具も未発達で、たいへんな苦労をしながら山登りをすることになる。
 1921年(大正10)に発行された『主婦之友』8月号に、北アルプスを登攀しては絵を制作していた吉田博Click!の手記が掲載されている。当時の北アルプスとその周辺は、いまだ国立公園にさえ指定されてはおらず、人跡未踏のエリアがまだたくさん残っていた時代だ。彼は、地元で人夫を3人雇って登攀している。人夫3人の雇用というのは、当時は最低限の人数であり、登山経験が少なかったり初心者のケースだと登山人数にもよるが7~8人になることもめずらしくなかった。
 少し古い例だが、弘前第三十一連隊Click!が冬の八甲田山系を縦走しようとしたとき、念を入れて6名の案内人を雇っているのは、結果的に丸1日遭難しているとはいえ妥当な判断だったろう。6人いれば、そのうちの半数が誤った判断を下したとしても、残りの案内人によって誤りの修正が比較的容易にできたと思われるからだ。同隊は、雪中の八甲田の山中を1日彷徨しているが、なんとか全員無事に田茂木野へのルートを見つけて下山している。
 吉田が登るのは、もちろん白一色になる冬の雪山ではなく、さまざまな色彩にいろどられる夏山だった。その様子を、1921年(大正10)発行の『主婦之友』8月号に掲載された、吉田博「日本アルプス山上の天幕生活―夏の変つた生活法として一般の方にお勧めします―」から引用してみよう。
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 山の生活にどれだけのものを持つて行くかと云ひますに、人に依つては随分仰山な準備もしますが、私は極めて簡単にします。薬は多年の経験から薄荷入りの気付一個、食糧は熱湯を注いで直ぐ食べらるるもの、例へばトロロ昆布、麦こがし、ココア入り粉ミルク、飴玉、氷砂糖、塩気のかつた缶詰、梅干、味噌、白米でありますが、困難の多い登山には発汗も従つて多いので、つまり外へ出る塩分の補ひとしても、塩分の多い副食物は必要であります。山へ瓶詰の醤油を携帯するといふやうなことは、及びもつかない贅沢であります。普通は未だ擂つていない味噌を携行します。時によつては麓を立つ時に擂つて来ますが、いづれにしても味噌は最も簡便です。人跡を絶つ山間に十二三日も送るのですから、私は兎も角として、同行の人夫は随分無聊に苦しみます。そのためにもと思つて、私は種々の缶詰類を用意しますが、製作の上の苦心の他にまたこういふ些細なところにまで注意が要ります。
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 当時の登山は、専用の登山用品などほとんど存在せず、草鞋(わらじ)をはいて登るのが普通だった。吉田博は、草鞋に毛皮の外套をはおり、菅笠をかぶって画道具を背負いながら登っている。当時の天幕(テント)はその名のとおり、下に敷くシートがないので、地面の上に毛布を敷いて横になる。天幕内で焚き火をして、それをひと晩じゅう絶やさないのが慣例だった。現在のテントのように、密閉されないので可能だったのだろう。吉田は、このような生活を10日間以上つづけても睡眠不足にはならず、疲れはしないと書いている。むしろ、山で疲労するのは、「日中に背中を太陽に照らされることによるやうです」と書く。このあたり、いまの感覚ではよくわからないのだけれど、2,000mを超える山岳では紫外線が強く、それに当たりすぎると身体に強い疲労感をおぼえたものか、あるいは発汗による倦怠感をおぼえたものだろうか?
 吉田博は、天幕を張ったポイントをベースに、ひとりでスケッチをしながら周囲を歩きまわるのだが、その間、3人の人夫は食事の用意や水、薪の確保などの仕事をしている。基本的な調味料や米は携帯したようだが、副食物は現地調達が原則だった。正式な名称は不明だが岩茸や岩苔、アザミの芽、渓流がある場所ではイワナなどを採って食べていたらしい。北アルプスではよくライチョウが姿を見せるので、人夫や登山者が追いまわしている光景も見られた。
 海の写生もそうだが、山の写生でもある瞬間を手早く切りとらないと、刻々と山肌や空の色彩が変化してしまう。翌日の同時刻に、再び写生をしようとしても色彩が異なり、また天候もすぐに変わりやすいので“つづき”を容易に描けないのだ。一度中断したスケッチを、再びはじめることができずに途中であきらめて、廃棄された作品は膨大な枚数にのぼるようだ。

 
 当時から、マナーの悪い登山者もいたらしい。天幕をたたんで、山小屋のある低山へともどってくると、荒らされた小屋を目にすることもたびたびあったようだ。同誌から、再び引用してみよう。
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 製作も済んで出発と定まれば、小屋をたゝんで、その場で天幕や衣服を乾かしてしまひます。毎朝、天幕は驟雨に逢つた洋傘のやうに湿つてゐるのです。ものが乾いてゐないことは、山では最も不快なことです。従つて濡れて小屋に来ることも一番困ることです。第一火が焚けません。濡れても燃ゆるものには白樺の皮がありますが、これはその筋から禁止されてゐますから、勢ひ這松の末枯を取つて焚くのです。昔の登山者は、小屋に宿つても、次に来るものの為めに、一夜の野宿に事欠かないほどの薪を残して行つたものたさうですが、今の登山者は、薪を残して行くどころか石垣さへも壊して、高根から落して興ずるものがあります。人跡の絶えた山中では、小石原に微に残ってゐる草鞋の跡や、唯だ一本伐倒された灌木の枝も道しるべとなります。前者が無意識にした親切も、後者にとつては唯一の頼りとなるのです。/私のやうに山中に日を送る事の多いもののつくづく感ずる事は、登山者各々がもう少し相互に親切にし合つて、気持のいゝ登山をする事が出来るやうにしたいと云ふ事です。
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 『主婦之友』に掲載された吉田博の手記は、野外生活の奨めという切り口からも書かれている。当時、日本ではキャンプという概念がほとんど普及していなかったが、欧米では大流行していた。都会生活で身体を壊しがちな家庭には、単に日を送る別荘生活などではなく、自然を愛好する野営(キャンプ)が最適なのではないか・・・と結んでいる。

 
 キャンプやハイキングClick!は、大正末から昭和初期にかけて一般化してくる。登山用具やキャンプ用品が、ようやく庶民の手にとどくようになるのも、ちょうどそのころからだ。でも、現在からは到底信じられないけれど、1960年代ぐらいまでの防水布製テントやシート、防雨天幕、支柱、ペグなどは相当な重量で、普通の人が手軽に背負えるような仕様ではなかった。

◆写真上:1949年(昭和24)の夏に、稜線から親父が撮影した北アルプスの鎗ヶ岳。
◆写真中上:上左は、同年に親父撮影による上高地小梨平からの穂高。上右は、上高地から眺めた穂高連峰の現状。下左は、1921年(大正10)の『主婦之友』に掲載された天幕内の吉田博(右)。下右は、1926年(大正15)に描かれた吉田博『日本アルプス十二題』のうち「鎗ヶ岳」。
◆写真中下:上は、やはり吉田博『日本アルプス十二題』のうち「穂高山」。下左は、1922年(大正11)制作の同『雲海に入る日』。下右は、1921年(大正10)制作の同『上高地より穂高岳を望む』。
◆写真下:上は、大正中期の天幕(テント)による野営(キャンプ)の様子。下左は、1926年(大正12)制作の吉田博『日本アルプス十二題』のうち「鷲羽岳の野営」。下右は、1949年(昭和24)に撮影されたカミソリ尾根から眺めた鎗ヶ岳で、写っているのは大学を卒業したばかりの親父。