1952年(昭和27)12月8日の夜、神宮外苑でひとりの男が米軍の情報機関のジープから、突然放り出されるように解放された。情報機関の工作員は、その男に1年間分の「謝礼」として大金を渡そうとしたが男はそれを拒否し、自宅へ帰る交通費(タクシー代)だけを要求した。男はタクシーをひろうと、下落合4丁目2135番地(現・中井2丁目)の妻・池田幸子が待つ自宅へ向かうよう運転手に告げた。男の名は作家で文芸評論家の鹿地亘(かじわたる)、不可解な拉致誘拐事件の「鹿地事件」がいちおうは終結した瞬間だった。
 鹿地は戦前、日本プロレタリア作家同盟の書記長をつとめ、上落合1丁目460番地にあった全日本無産者芸術連盟(ナップ)Click!の本部に、一時期住んでいたこともあった。東京帝大の社会文芸研究会に属し、林房雄Click!や中野重治Click!たちとも親しい関係だ。1934年(昭和9)に治安維持法違反で特高Click!による検挙のあと、1936年(昭和11)には日本を脱出して上海に渡り、魯迅Click!や郭沫若Click!、内山書店の内山完造などと親しく交流するが、そこから国民党政府のある重慶へと移動している。そこで、蒋介石と米軍の支援を受けて「日本人民反戦同盟」を結成する。特に米軍への協力では、米国へ亡命した八島太郎(岩松惇)Click!と同様に、軍国主義に反対し戦争を早期に終結するよう、飛行機から日本本土へとバラ撒く宣伝ビラの制作に従事している。
 1945年(昭和20)、敗戦と同時に帰国し作家活動を再開するのだが、1951年(昭和26)11月25日の夕方、肺結核の術後療養のために借りていた藤沢市鵠沼6083番地にある知人の別荘の近く、江ノ電・鵠沼駅の付近で夕食後の散歩中、いきなり数人の米軍人に殴り倒されクルマに押しこまれて誘拐拉致された。最初に連れこまれたのは、池之端にある接収されていた本郷ハウス(現・旧岩崎邸庭園)であり、いわゆるキャノン機関(G2)の本部だった。翌日、横浜の中央外人病院へ連れていかれ、胸部のレントゲン撮影を行なっている。つづいて、川崎市下丸子の東京銀行川崎クラブに拉致・監禁されている。
 

 この間、鹿地は足とベッドとを鎖でつながれ、逃げられないよう常時監視がついていた。米軍のキャノン機関によって執拗に繰り返されたのは、米国の工作員(スパイ)になれという脅迫だった。重慶時代に米軍に協力していた関係から、戦後も米軍の工作員として無理やり“雇用”しようとしたらしい。そこには、ソ連との間で二重スパイに仕立てるという思惑もあったのかもしれない。帰国後の鹿地は、米国側とはまったく疎遠になっており、再び米軍の手先となって情報提供をするよう強要されたようだ。鹿地は、監禁されている間に二度、米軍の執拗な脅迫から自殺未遂事件を起こし、手術をしたばかりの結核症状も悪化していった。その様子から、キャノン機関の担当仕官は威圧的な脅迫をやめ、徐々に人間らしい扱いをするようになったという。
 その後、鹿地は川崎のクラブから茅ヶ崎市菱沼海岸のUSハウス、代官山の猿楽小学校前にあったUSハウス、そして生命がいちばん危うくなった、当時は返還前の米国領だった沖縄の米軍基地を経て、再び代官山のUSハウスへ……と、監禁場所を転々としている。これは、鹿地亘の失踪問題が日本国内で徐々に大きくなり、監禁場所の日本人コックから家族への連絡で、米軍に拉致誘拐されたことがだんだん明らかになってきたからだと思われる。1952年(昭和27)11月になると、マスコミも大々的に「鹿地事件」を報道しはじめ、問題は国会レベルまで拡がりを見せはじめた。そこで、米軍は鹿地を代官山からジープに乗せ、12月8日の午後7時前後に真っ暗な神宮外苑で車外へ放りだした。

 
 すでに日本はGHQの占領下ではなくなり、キャノン機関はとうに解散していたため、このあとも引きつづき「鹿地事件」は国会で取り上げられ問題が大きくなっていくのだが、詳細は同事件を扱った専門の書籍を参照いただくとして、下落合の鹿地邸に目を向けてみよう。神宮外苑で放り出された鹿地は、タクシーをひろうと午後8時ごろに、妻・池田幸子が住む下落合4丁目2135番地へともどった。この地番は、昭和初期に林芙美子・手塚緑敏夫妻Click!が暮らした五ノ坂下にある西洋館Click!の、ちょうど西隣りに当たる区画だ。この家に、鹿地亘は中国から帰国して間もなくの1947年(昭和22)から、神宮外苑で放り出されて帰宅した翌年の1953年(昭和28)まで住んでいる。
 肺結核の手術をした1951年(昭和26)、鹿地はここから藤沢市鵠沼の知人から借りた別荘へと出かけ、同年11月25日から翌1952年(昭和27)12月8日まで、丸1年余にわたり米軍に拉致・監禁されていたことになる。解放直後の1953年(昭和28)になると、下落合の同じ家にいるのが気持ちが悪く落ち着かなかったものか、さっそく転居をしている。だが、戦前から馴染みの深かった落合地域を離れがたかったようで、鹿地夫妻が次に引っ越したのは、下落合の家から東南東に800mほど離れた上落合1丁目36番地だった。もともと、戦前に中野重治・原泉Click!夫妻が住んでいた借家(上落合1丁目48番地)のすぐ南側の敷地だ。鹿地夫妻は、この上落合の家に1956年(昭和31)まで住むことになる。
 
 上落合1丁目36番地の家は、鹿地が昭和初期に日本プロレタリア作家同盟の書記長をしていた時代に住んでいた、上落合(1丁目)480番地の“ナップ本部”から東南東へ約200m、上落合(1丁目)186番地の村山知義アトリエClick!からも東へ200mほどしか離れていない一画にあった。現在は、落合中央公園の野球場建設で消滅した住宅街だが、グラウンド上ではレフトの守備位置から東側が同地番あたりに相当する。

◆写真上:鹿地亘夫妻が1953年(昭和28)から3年間住んでいた、上落合1丁目36番地界隈の現状で落合中央公園野球場の東側一帯。
◆写真中上:上左は、1952年(昭和27)発行の誘拐事件を報じる雑誌に掲載の鹿地亘。上右は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる下落合4丁目2135番地界隈。下は、1947年(昭和22)に撮影された下落合4丁目2135番地で7軒のうちのいずれかが鹿地邸。
◆写真中下:上は、下落合4丁目2135番地(現・中井2丁目)付近の中ノ道(現・中井通り)から北へと入る行き止まりの坂道を眺めたところ。鹿地邸は坂道の右手、東へと入る路地沿いに建っていた。下左は、江ノ電・鵠沼駅近くの事件現場。藤沢駅方向を向いて写したもので、左側の線路が江ノ電。下右は、1948年(昭和23)撮影の空中写真にみる鵠沼駅北側の拉致・誘拐現場付近。
◆写真下:左は、キャノン機関(G2)の本部だった池之端の本郷ハウス(現・岩崎邸庭園)。右は、1948年(昭和23)撮影の空中写真にみる上落合1丁目36番地界隈。