下落合の聖母病院とならび、東京ではキリスト教系の大病院として有名な聖路加病院。都合が悪い政治家を即日「入院」させたりして、地味な聖母病院に比べてかなり商売上手に見えるけれど(^^;、この病院の敷地は100年前には芥川龍之介が生まれたミルク牧場だった。
 芥川の作品にも登場するが、築地居留地からそのまま住みつづける多くの外国人へ乳製品を供給する牧場だ。築地外国人居留地が開かれる前、江戸後期には中川修理大夫の上屋敷で、さらに、いまから300年ほど時代をさかのぼると、ここは赤穂藩主・浅野内匠頭の上屋敷があったところだ。
 いま、芝居や映画、TVで描かれている「忠臣蔵」は、ほとんどが事件のあった1702年(元禄15)から46年を経過した、1748年(寛延元)に浄瑠璃用の台本として書かれた『仮名手本忠臣蔵』がベースとなっている。しかも、作者は大坂(阪)の竹田出雲らであり初演場所も大坂だ。
 つまり、江戸で起きた事件の事実を、竹田出雲は実際に見ることも現地で年寄りに取材(ウラ取り)することもなく、想像するがままに描いたことになる。吉良は徹底的に悪役に描かれ、浅野は悲劇の主人公、大石は武士の鑑である忠臣として顕彰されている。でも、ホントにそうだろうか? 事件当時、奉行所や江戸の街々にあった自身番の差配たちが書きとめた記録を見ると、まったく違う事件の様相が浮かび上がってくる。
 いろはにほへ
 ちりぬるをわ
 よたれそつね
 らむうゐのお
 やまけふこえ
 あさきゆめみ
 ゑひもせ
 「仮名手本」の末尾を読ませて、「咎(とが)なくして死す」としゃれたのは買うけれども、千代田城内で殺人未遂事件を起こして「咎」がないとは、どう贔屓目にみても言えない。しかも、浅野の元家臣が本所の吉良邸へ討ち入るはるか以前の事件直後、「討ち入り」による打壊し(ぶちこわし)は築地川の軽子橋東詰め、舩松町にほど近い浅野の上屋敷で起きていた。
 浅野邸に討ち入ったのは、吉良の家臣でもなければ、下谷練塀小路あたりの歌舞(かぶ)いてあまり評判のよろしくない幕臣たちでもなく、吉良の「殿さま」が傷つけられたことに激昂した大勢の江戸町人たちだった。つまり、吉良上野介義央という人物は、それほど江戸の街では慕われて人気があったのだ。
 江戸市中における吉良の評判は、いまでもそこかしこの記録で目にすることができる。屋敷の周辺に病人が出ると藩医を差し向けて施薬したり(屋敷へ薬をもらいに来る町人も多くいたらしい。後世の浜町河岸・秋元但馬守の“テリアカ”施薬に近い感覚だろうか)、邸内の稲荷へ町人の自由な参詣を許し、歌会には武家町人を分け隔てなく招いては歓待していたという。つまり、当時とすればまことにざっくばらんで話のわかる、町人にとっては「ご近所」にしておくのがなんとも心強く、また気軽に言葉をかけてくれるたいへん珍しくもありがたい「殿さま」だったのだ。
 このあたり、吉良の江戸町民に対する多くの事跡については、ようやく本所・吉良邸跡にも展示され始めた。(ただし、長子が養子に行った米沢藩上杉家の記録では、奢侈好きでいい格好をしたがる老人だったという記載が見える)
 こと町人に対しては、“通”でもの分かりがよくて洒落てるその「殿さま」が、城内でわけのわからない短気でキレやすい青二才大名に傷つけられたとあっては、江戸の町人も黙っていられなかったのだろう。町人たちが仕事を終える暮れ六ツとともに、浅野邸の前には不穏な群集が集まりだし、やがて門を破って次々と邸内へ「討ち入」った。
 打壊し(ぶちこわし)はひと晩中つづき、屋敷内に残っていた浅野家の人々は近くの寺や姻戚の屋敷へ逃げ散っている。(死人は出なかったようだ) 邸内にあった家具調度はことごとく壊され、明け六ツとともに奉行所から員数をそろえた役人たちが駆けつけたときには、すでに町人たちは姿を消していたという。
 下落合にほど近い朱引き(大江戸境界線)のすぐ外側にある、中井駅近くの満昌院功運寺Click!(上高田4丁目)に、本所の吉良邸で赤穂浪人に殺された「討死忠臣(三十八士)」たちとともに、いま吉良上野介義央は眠っている。