久しぶりに、もんじゃ焼きを食べに行った。その昔、駄菓子屋に毛の生えたような店で、30~50円を出すと食べさせてくれたもんじゃに比べて、いまはケタ違いの豪華さ。大人が食べても「うまい」と感じるように、現在のもんじゃは昔のものに比べると、まったくの別物となっている。
 親父が連れていってくれた鉄板焼きの店は、どんど焼き※(お好み焼き)がメインだった。もちろん、もんじゃ焼きも置いてあったが、どんど焼きが食べられるのにもんじゃを注文するばかな子供なんぞ、当時はひとりもいない。もんじゃ焼きは、粗末な駄菓子感覚の子供の食いもんであり、それが大人の口に合うように豪華になったものがどんど焼き…という位置づけは、そのころから決定的だった。親からも、もんじゃは戦後、食糧事情が悪いときに水で小麦粉をだまくらかすように薄めに薄めてでっち上げた、菓子類が少ないころのガキのオヤツ…と繰り返し聞かされていた。そんな感覚でいたから、わたしはもんじゃ焼きが嫌いでどんど焼きは好き…という先入観が、いまだ抜けきれていない。
 ところが…、昔のもんじゃのイメージで出かけたわたしは驚いてしまった。けっこううまいのだ。そして高い! もんじゃ1杯がなんと1,000円とは、びっくり下谷の廣徳寺だ、もうありえない。そして、もっとありえないものを見つけてしまった。それが下の写真。

 「懐石もんじゃ」ってなんだ? 最初はふざけているのかと思った。「懐石」と「もんじゃ」、「水」と「油」、「月」と「スッポン」…、およそ組み合わさるはずのない文字が組み合わさっている不思議。まるで、「深川文化村」「学習院ブルース」「神田川のヤマメ」「真空管携帯」「一膳飯屋・椿山荘」「赤ちょうちん杏奴」…と、組み合わさってはいけないもの同士が結びついたときに感じる、口の中が酸っぱくなるようなゴリッとした違和感。いったい店主は、なにを考えているのだ? 瞬間、看板に石を投げてやろうかと思ったぐらいだ。
 ところで…、もんじゃ焼きの食い方を知らない大人が多いのに驚いた。どんど焼きと同じように、焼けた鉄板へ丼をあけてしまって、火傷している姿をあちこちで見た。わたしのうしろには、JALだかANAの乗務員が4人座っていて、「あっちー!」だの「すっちー!」だのとかまびすしい。いまの子は、鉄板のある駄菓子屋へ行ってなけなしの50円玉を出し、怪しげな食材が入ったもんじゃなどを食べたことがないのだろう。貧しい東京の食いもんだが、最近のもんじゃの出世には驚くばかりだ。それでもわたしは、もんじゃ焼きよりもどんど焼きが好きだ。

※おそらく、隅田川西岸の日本橋から浅草界隈でつかわれる下町言葉で、「お好み焼き」とは呼ばずに「どんど焼き」と呼ぶ。山手言葉には存在しない。昔は、看板にも「どんど焼き」としていたところが多かったが、いまは見かけない。青物屋/青果屋(江戸)と八百屋(大坂)の違いに近いものを感じる。