1945年(昭和20)4月13日(金)の深夜、目白文化村の住民は空襲警報にたたき起こされた。13日深夜から14日の未明にかけて、米軍のB29爆撃機は高田馬場から池袋の各駅周辺を夜間爆撃している。3月10日の下町を襲った東京大空襲から、ほぼ1ヵ月後のことだ。飯田橋あたりの上空で2隊に分かれたB29の編隊は、それぞれ高田馬場駅と池袋駅へと向かった。
 池袋駅は、駅上空へ到達するかなり手前、雑司ヶ谷の北西部から爆撃をはじめ、やがて池袋駅周辺の繁華街すべてを焼き払った。一方、高田馬場駅へ向かった編隊は、照明弾によって照らされた神田川と早稲田通りを目印に西進をつづけ、正確に高田馬場駅あたりから爆撃を開始している。当時、駅の西側から神田川沿いに、下落合から中井にかけ中小の工場らしき屋根が並んでいたので、その破壊をめざしたらしい。しかし、戦前に神田川沿いに展開していた「工場」の多くは、軍需工場ではなく江戸友禅染めの大規模な染色工房だった。
 B29の編隊は高田馬場駅周辺から焼夷弾を落としはじめ、神田川から妙正寺川へとさかのぼり下落合駅を焼いたあと、中井駅の少し手前で飛行コースを西北西に変えている。おそらく、池袋を爆撃した編隊と合流するために、やや北へ進路を変えたのだろうが、これが目白文化村にとっては不運だった。まだ神田川沿いの「工場」へ投下し終えていない機が、進路変更後も焼夷弾を落としつづけたのだ。このときの空襲で、現在の下落合2~4丁目、そして聖母病院のある中落合2丁目はほとんど焼けなかったが、神田川沿いの下落合1丁目、上落合のほぼ全域、中落合1丁目、中井2丁目、中落合3~4丁目は被災した。
 ちなみにこの夜、学生だった親父は、高田馬場にある現在のBIGBOXの裏手に下宿していたが、かろうじて火災から逃れている。実家のあった東日本橋を焼いた東京大空襲につづいて、二度目の罹災だった。また、連れ合いの義父は六本木の第一師団第一連隊営の近くに住んでいたが、このとき新宿付近から大久保、高田馬場の負傷者を大勢トラックに積んで、焼け残った国際聖母病院までピストン輸送している。
 目白文化村は、B29の侵入コースである第四文化村の改正道路(山手通り)側を半分ほど焼き、つづいて第一文化村と第二文化村の大半を焦土と化した。ただし、コースから外れていた第三文化村は、このときはほぼ無キズのままだったようだが、やがて5月25日の空襲Click!で北側が大きく焼けることになる。また、文化村を囲むように建てられていた、古い日本家屋が密集した府営住宅もかなり被害を受けた。このときの空襲で、文化村の全221棟の家屋のうち130棟が焼失Click!。全体の59%の被害だが、面積に換算すると実に70%近い区画が焼けたことになる。住民たちは、工事中の改正道路の空き地や、中井の外れにある御霊神社へ避難したという。
★その後、第一文化村と第二文化村は4月13日夜半と、5月25日夜半の二度にわたる空襲により延焼していることが新たに判明Click!した。
 爆撃の直後、ガレキと化した焼け跡で、所蔵品のかけらを探す会津八一が目撃されている。「ひともとの 傘つゑつきて 赤き火に 燃えたつ宿を 逃れけるかも」…。彼は後年、このときの空襲を歌に詠んでいる。もし会津が、西坂の上にあった家から目白文化村へと引っ越さなければ、貴重な所蔵品は焼けることなく現存していたと思うと残念だ。

■写真:火にあおられた跡の残る大谷石。(第四文化村)