いまから69年前のきょう、1936年(昭和11)2月26日、前夜から降りつづいた大雪の朝、当時は小学生だった親父はいきなり母親(祖母)にたたき起こされた。めずらしく朝っぱらからラジオが大きな音で流れていて(ラジオ放送は沈黙していた・・・というのが定説なので、これは親父の記憶違いClick!の可能性が高い)、朝食を食べるのもそこそこいきなり母親からこう告げられた。
 「東京が戦争で火の海になっちまう。いまのうちに見ておくからさ、早く支度おしよ」
 ラジオから流れるニュースの意味がよくわからず、親父は、当然ながら学校へ行く支度をして居間に下りていくと・・・
 「そんなもん置いてきな」
 と言われて、勉強道具を放り出された。そこで初めて、学校へ行かなくてもよく、それ以上になにか重大なことが起きているのを知った。午前9時少し前、親父の父親(祖父)はすでに仕事に出かけ、兄(伯父)はとうに府立中学へと登校したあとだった。ちょうど麹町区有楽町の東京朝日新聞社が、栗原・中橋隊50名により「国賊朝日新聞社を膺懲する」と襲撃されていた時間帯だ。
 千代田小学校(現・日本橋中学校)の校舎を右手に見て、すずらん通りから両国広小路の広大な道路へ出ると、祖母はすぐに円タク(1円タクシー)を拾った。それからの半日間、親父はなにがどうなっているのかわからないまま、東京じゅうの景色を車窓から眺めることになる。前年の、相沢三郎中佐による永田鉄山軍務局長の斬殺は知っていたが、陸軍の皇道派と統制派の抗争や、北一輝をはじめとする「原理主義的社会主義」とでもいうべき思想に影響された青年将校たちの存在など、小学生の親父には知るよしもなかった。
 円タクがまず向かったのは、下谷から練塀町を通って神田見附(万代橋のちに万世橋)あたり。めずらしい神田の雪景色を車窓から眺めながら、そのまま上野へと抜けずに、御茶ノ水から飯田橋、近衛師団のある九段下、竹橋あたりへ入ってくると、周囲の雰囲気がおかしいことに気づいた。人やクルマの数が少なくなり、代わりにやたら警官の数が多いのだ。26日の昼間、まだ東京市内には戒厳令がしかれていなかった。戒厳令が決定されるのは、同日の夜(午後8時)に入ってからだ。
 やがて九段下から糀(麹)町、溜池、山王下あたりに円タクがさしかかると、今度は街中に兵士の姿が目につくようになる。四つ角ごとに兵隊たちが立ち、通過するクルマを止めては誰何(すいか)していた。特に、山王下の料亭「幸楽」や「山王ホテル」の周辺は、完全武装の兵隊たちが大勢たむろしていたという。祖母と親父の乗った円タクも、そんな場所にさしかかると銃剣つきの小銃を向けられて停止を命じられた。「どこへ行くか!?」と訊かれて、物見遊山とは答えられない祖母は、最初は親父をダシにして「子供が熱を出して」・・・とか、いい加減なことを答えていたそうだ。
 ところが、赤坂から第一師団の麻布一連隊と三連隊のある六本木あたりへとクルマがさしかかると、兵士の誰何が頻繁になった。これらの兵士は、警備戦時令による第一師団から派遣された警備兵だと思われる。警備戦時令の発令は午後3時ということになっているが、その前から第一師団の兵士たちは街頭へ出ていたようだ。十字路にかかるたびに、停止を命じられてどこへ行くのか、あるいはその理由を訊かれるので、とうとう祖母は「どこへ行こうが、あたしの勝手さ!」と怒りはじめた。

 横柄な口調で誰何してくる兵士たちが、20歳前後の若造ばかりだったのも、当時、30代前半の祖母のシャクに触ったようだ。祖母は赤坂あたりで、ついにキレた。銃剣を突き出しながら「どこへ行くか!?」と詰問する兵士に、車窓を開けざま・・・
 「邪魔するんじゃないよ、どきな!」
 と怒鳴りだしたのだ。何度目かには、ついでに「バカのひとつ憶えかい! 用事があるのさ、どきな!」とも叫んだようだ。円タクの運転手は、ニヤニヤ笑っていたそうだが、祖母の横に座っていた親父は気が気ではなかった。なにしろ、兵士たちはそろって着剣銃口をこちらに向けている。だが、母親がほんとうに怒ったときの怖さも知っていた。父親をはじめ、町内の男たちを黙らせるほどお侠(きゃん)で威勢がよかったようだ。その剣幕に気圧されてか、兵隊たちはそのまま通行させてしまったらしい。円タクは、兵士の誰何と祖母の罵声を繰り返しながら、やがて有楽町から数寄屋橋、銀座を通って日本橋へと帰ってきた。
 親父はのちに、二二六事件の現場を逐一見てまわったことを自慢にしていたが、祖母がキレて一連隊か三連隊の兵士たちを怒鳴り散らしたことは、ようやく晩年になってから初めて話してくれたことだ。アルバムに残る、祖母の粋な和服姿の写真を見るにつけ、わたしはつくづく、ひと目でもこの女性に逢いたかったと思う。敗戦の直前、40代の祖母は病気で死んだ。東京大空襲を知らずに死んだのは、むしろ幸福だったのかもしれない。
 26日の早朝、ピストルと軍刀で殺害された高橋是清蔵相の、赤坂区表町にあった私邸が、いま小金井にある江戸東京たてもの園(江戸東京博物館)に保存されている。血痕こそ残っていないが、その日にできたものか、2階寝室の長押の角には刀痕と思われる瑕が残っているのが印象的だ。

■写真:26日の山王下あたりで、着剣した実包(実弾)装備の銃口を向けて誰何(すいか)する決起部隊の兵士たち。決起部隊の中には後年、目白/下落合を愛した落語家・柳家小さんもいた。(上) 翌日、戒厳令下の東京市街。日比谷あたりか。(下)