「下落合」という地名は、神田川と妙正寺川とが合流する地点だから名づけられた・・・というのが定説だが、ふたつの川が落ち合わなくなってからしばらくたつ。その昔、山手線のガードから向こう側は、洪水の常襲地だった。高田馬場渓谷(現状を見るとこの名称はふさわしくないですが)の狭隘な谷間で勢いづいた水流が、まるでポンプで押し出されるように一気に下流へと噴出した。ひどい住宅になると、10年間に十数回の床上浸水の被害をこうむっていた。
 わたしも下落合に住むようになってから、危険水位を超えたサイレンを何度も耳にしている。つい昨年の秋、連続して来襲した台風によって久しぶりにサイレンを聞いた。深刻な被害はなかったが、それでも上落合の一部が膝上まで水に漬かった。地下分水路を完全稼動させ、神田川と妙正寺川の合流をなくしてしまっても、いまだにこういうことがあるのだ。もともとは河原だったところに、家々が建ち並んでいるのも被害を大きくしてきた要因だ。目白台の下、南蔵院や氷川明神男体社から面影橋あたりに、江戸時代からつづく「砂利場」という地名があった。広重の名所江戸百景「高田姿見のはし俤(おもかげ)の橋砂利場」(百十六景)でも有名だが、高田馬場の峡谷から押し出された大量の水を、この広い砂利場や周囲の田畑が吸収して下流域へのクッションの役割を果たしていた。ところが、コンクリートによる護岸工事が進むにつれ、洪水が頻繁に下流域を襲うようになる。
 神田川の洪水は、堤防が決壊して浸水というケースはほとんどない。川から水がジワジワとあふれ出てくるのだ。台風や大雨のあと、神田川にかかる橋々が、ちょうど水をせき止めるダムのような存在となり、橋に近い住宅はほんの数分で床上まで漬かることになる。1階には大事なものを置かないというお宅が、少し前まではたくさんあった。わたしも、早稲田界隈で氾濫したところを何度か見ているが、ビルなども怖くて地下階を造れないと聞いたことがある。1981年、もっともひどかったときは、神田川からあふれた水が外濠を襲い、飯田堀の神楽坂河岸一帯の水位を6mも押しあげた。いまなら、神楽坂下の堀端にあるおしゃれな「カナルカフェ」は完全に水没しただろう。
 神田川と妙正寺川の落ち合う地点に、1970年代に建設された地下分水路は、毎秒300トンの水を1.6km下流へとバイパスすることができる。でも、このバイパスは長い間ほとんど使われないまま放置されてきた。ときどき、アリバイ的に毎秒50トンの水を通していただけだと聞く。「この分水路を使用してしまうと、下流域が洪水に襲われるから」・・・というのが、役所の住民への説明だったというから呆れる。言葉の裏には、「だから上流で洪水が起きても、なんとかがまんしてくれ」というのが見えみえで、しかも行き当たりばったりな泥縄式の災害対策がなされてきたことを、自ら白状したようなものだった。神田川両岸の住民は、その無責任さに怒っていっせいに訴訟を起こしている。
 

 雨が1時間に50~80mmほど降ると、神田川の水位は一気に5mも上昇する。この状況は、いまもほとんど変っていない。流れというよりは、むしろ鉄砲水と呼んだほうがふさわしいようだ。雨が降って、水が河川へと流れこむ割り合いを流出率という。大正時代、神田川の流出率は40%だった。つまり、雨が降ってもその水の60%は、地面へと吸収されていたのだ。だが、現在の神田川の流出率は90%に迫っている。

■写真:上の写真は左から1940年(昭和15)・落ち合う、1960年(昭和35)・落ち合う、2005年・落ち合わない。下の写真左は、妙正寺川の地下分水路入口。