江戸四橋(千住大橋を入れれば五橋)の最下流にある、ブルーに塗られたライトアップも美しい永代橋。でも、いまの実質の最下流橋は、佃島の向こう側にある勝鬨橋だ。永代橋は明治以降、二度にわたって築造されている。一度めは、江戸期からつづいた木製の橋を、鋼材で架けなおした1897年(明治30)の架橋。ところが、橋床が木製だったために関東大震災で焼失し、1926年(大正15)に改めて鉄筋コンクリート製の橋として造りなおされた。ドイツのライン川に架かるマーゲン鉄橋をモデルにしたといわれ、東京大空襲でも燃えずにそのまま残った。
 でも、この永代橋は、黙阿弥の『八幡祭小望月賑』(はちまんまつりよみやのにぎわい=『縮屋新助』)や、三遊亭圓生の落語『永代橋』でも知られるように、日本最大の橋梁事故を起こしている。1807年(文化4)、天候不順で延びのびになっていた深川八幡(富岡八幡)の祭礼が行われている最中に、混雑をする橋上の群集を載せたまま、中央部から丸ごと崩落したのだ。8月19日当日は、降りつづいた雨もようやく上がり、祭礼の行列が永代橋を渡りはじめると同時に、見物をしようと待ちかまえていた群集が新堀町側からも深川側からも殺到した。祭りを先延ばしにされていた町民たちは、それこそジリジリとこの日がくるのを待っていたのだろう。祭り当日の午前中、大川(隅田川)を一橋公が通過するというので通行止めにされていたのも、江戸っ子たちがじれったさを増幅する要因だったのかもしれない。

 西詰めと東詰めから押し寄せた群衆は、ちょうど永代橋の中央で衝突して身動きが取れなくなった。その重みに耐え切れなくなり、永代橋はお午(ひる)すぎついに崩落してしまう。でも、橋を渡ろうとする群衆の動きはやまず、両岸から押し寄せる人々の圧力で人の落下が止まらずにつづき、死者900人、行方不明者を合わせると1,500人以上という大惨事になってしまった。
 永代橋は1698年(元禄11)、五代将軍・綱吉の50歳の誕生日を記念して架けられている。伊奈忠順を代官とし、上野寛永寺の根本中堂建立で余った材木をもとに造られているので、その工事には紀文も絡んでいたかもしれない。長さ110間(約200m)、幅3間余(約6m)と、当時としては最大規模を誇る大橋だった。下を船が通過するので、橋脚をことさら高くしたのも、橋をいっそう巨大化することになった。でも、台風や大雨のたび、永代橋は大小の損傷を受けて、幕府の管理維持費は膨大なものとなっていく。享保年間には、橋を撤廃しようという動きまで見られるようになる。ただ地元の町民にしてみれば、深川へ行くにはとても便利だったこの橋がなくなることなど考えられず、幕府に対して大規模な存続運動を展開している。
 1726年(享保11)、ついに町民管理という形式で永代橋は存続することになった。橋の通行には、2文の渡橋銭を払ってわたる自主運営方式を採用したのだが、のちに、渡橋銭のみでは維持しきれないほど、永代橋の管理にはカネのかかることがわかった。管理予算の不足という事態が“永代”にわたってつづくこととなり、永代橋のメンテナンスはおおざっぱなものとなっていった。崩落事故が起きた当時、永代橋の老朽化は進み、あちこちの補修の手当ても追いつかず、なおざりにされていたものと思われる。

 いまでこそ、橋上から眺める風景は、石川島のリバーシティ21や聖路加タワーがそびえ、ドラマのロケーションにも頻繁につかわれる界隈となったが、もうすぐ永代橋の大事故から200年を迎えようとしているのに気づく人は少ない。事故のとき、この橋から落ちた辰巳芸者(深川芸者)の美代吉は縮屋新助に助けられるが、やがては嫉妬にくるった新助に殺される。九死に一生を得た美代吉のはかなさは、そのまま深川八幡祭とともに散った永代橋の犠牲者のはかなさへと重なり、大川の波立つ流れへと呑みこまれたままだ。

■写真上:左は2005年の永代橋、右は「永代橋崩壊図」(江戸東京博物館蔵)。
■写真中:江戸時代末期の永代橋(撮影者不詳)。
■写真下:『縮屋新助』舞台上、美代吉の6代目・中村歌右衛門と新助の初代・中村吉右衛門。(昭和20年代) 初代・吉右衛門は、このあとほどなく死去。