普段着に着物・・・というシチュエーションが、ほとんどなくなってしまった。いや、現代ではヘタをすると「普段」と「着物」という言葉は、あたかも対立概念のようなニュアンスにさえ感じられる。「特別」に「着物」があたりまえとなり、ますます着物は日常からは乖離した存在になりつつあるようだ。
 大正デザインの着物がブームになっていると聞くが、着ている人をついぞ見かけたことがない。デパートへ出かけても、普段着よりは礼装/ハレ着、絣・紬・小紋よりは付け下げ/訪問着・・・、かろうじて普段着ながら高価な大島や江戸小紋がそれなりのスペースを占めているぐらいだろうか。それこそ普段着コーナーは、年々縮小されて隅のほうへと追いやられているように感じてしまう。普段着は利幅も低く、いまでは日々装う習慣もないので、「現銀掛値なし」の呉服商売にそれほどうま味がないのかもしれない。そんな光景を見なれているわたしには、ギャラリー陶花で開かれた「一衣舎春展」は、とても新鮮な展示会だった。どこかへ置き忘れてしまった光景、昔の「東京の色彩」が横溢していたのだ。
 わたしは正直いって、京友禅や西陣に象徴される派手々々しい着物が嫌いだ。どんなにきらびやかな金銀の経糸をつかい、鮮やかな色味で染めあげられようが、丹念に織りこまれようが美しいとは思わない。これはもう、“遺伝子”レベルの美意識だから「しゃ~がねえ」のだろう。しぶい色あいがあやなす着物こそ、華やかな女性を引き立てる装いだ・・・という、絶対的な固定観念というか偏見というのか、「いき」の基準が厳然とかたくなに存在している。そういう目から観ると、色鮮やかでキラキラした着物はかえって薄っぺらで、チャラチャラした感じに思えてしまう。いわゆる「野暮」、野暮天(垢抜けないひと)の装いと映ってしまうのだ。
 着物は、普段着が“いのち”だと思う。いつも着馴れているからこそ、ちょいとよそ行きのときはがんばって、下落合で創られるしぶい江戸友禅でも着てみちゃくれめえか?(お召しくださいませぬか?/山手弁)・・・ということになる。「普段」から「特別」へ・・・、着物は帰納的に着こなしてこそ、ほんとうの良さがわかり、いいものが理解でき、着物文化が継承されることにもつながるのではないか。

 昔ながらの小間物の江戸職人が、どんどん減少している。小間物屋も、いまや表店を張れるのは色町華町だけになりつつあるようだ。そういえば、うちにある簪櫛笄(かんざしくしこうがい)もめったに陽の目を見ることが少なくなった。せっかく「一衣舎春展」へ出かけたのだから、久しぶりに風通しのいい陽影で“虫干し”をしてやろう。日常的に存在し、普段から惜しげもなくつかわれるからこそ、文化は継承されていく。美術館や歴史博物館にピンで止められるようになったら、やはり文化は死んだも同然なのだ。

■写真:上は「一衣舎春展」の会場となった、「ギャラリー陶華」の建物。戦後の建築だそうだが、昭和初期建築の面影が色濃く残る。下はめったに陽の目を見なくなった、わが家の小間物類。