牡丹の名所というと、現在の下落合ではまず薬王院が思い浮かぶが、同院に牡丹が植えられるようになってからまだ40年ほどしかたっていない。それでも、下落合といえば東京都民(市民)がすぐにも牡丹の花を連想するのは、ずいぶん昔からのことだった。
 1908年(明治41)、聖母坂(当時こんな坂名はないのだが)の西側にある第三文化村にほど近い不動谷の一画に、「静観園」と名づけられた牡丹園が開園した。昭和初期の最盛時には700~800本の牡丹が咲き誇っていたそうだから、いまの薬王院よりもはるかに規模が大きい。園内には藤の巨木もあったそうで、牡丹と藤とがいっせいに花開く初夏のころ、つまりちょうどいまごろには「東京第一の誇りを為す」とされ、ずいぶんと大勢の見物客たちで賑わったようだ。
 「静観園」を造ったのは、牛込区市ヶ谷に住んでいた徳川慶勝侯爵。その後、同園を経営して見事な牡丹園に仕上げ、無料で公開していたのは、その子の徳川義恕男爵だった。そう、西坂上の広大な徳川別邸(当時)の敷地を利用して「静観園」は造られ、下落合はおろか東京市内でも指折りの名所となっていた。徳川男爵は侍従宮内省内匠寮御用掛をつとめていたので、ひょっとすると西ノ丸の庭園造成にも才能を発揮したのかもしれない。
 徳川男爵の連れ合いさんである寛子夫人は、津軽伯爵家の出身だそうだが、津軽家の屋敷ものちに下落合へと引っ越してきている。徳川家と同様に、当初は別邸(別荘)だったのかもしれないし、あるいは徳川男爵の息子が津軽家へ養子縁組しているせいだからかもしれない。「目白文化村」シリーズClick!で紹介したギル邸敷地付近、スペイン風の屋敷Click!が残るちょうど裏手あたりだ。1964年(昭和39)には、そこのお嬢さん(江戸期風にいえばお姫様)が結婚する際、下落合では懐かしの提灯行列が見られたというから、津軽家も下落合では比較的親しまれたお屋敷だったのだろう。両家は、いまでも同所に住まわれている。

 「静観園」という名前が面白い。直接的には、心をじっと静寂にして無心に牡丹の美を観賞する・・・というような意味なのだろうが、同園の造られたのが明治期なのを考慮すると、なんとなくうがった見方もしたくなるのだ。「こちとら、もういっさい知らねえもんね。ここは静観、新政府の手並み拝見とくらぁ」みたいな気持ちが、当時の徳川さんに残っていたのかいなかったのか・・・?

■写真:上は薬王院の牡丹(2005年)、下は西坂上の徳川邸「静観園」の牡丹(1932年)。