「まあ、なんてかわいらしいサクランボなのでしょう!」
 下落合のお嬢さんはそう言って、葉桜の木もれ陽まぶしい5月の空を、白い額に手をかざしながら見あげた。「もう、春もすっかりおしまいなのね」と、香ばしいそよ風を頬に感じながら息を深く吸って、「それにしても、サクランボのなる木はめずらしくなくって? だって、鎌倉のおばさまがよく言ってらしたわ。戦勝桜のソメイヨシノは桃色が美しいのだけれど、実がならないから不実で不吉な桜だわって。・・・ねえ、ばあや、聞いてる?」。
 「はいはい、聞いておりますよ、お嬢さま」
 「ねえ、ご覧。まだ実が青いから、きっと酸っぱくて食べられないわねえ。そういえば、このあいだの戦争でお亡くなりになった、大磯のおじさまがよく言ってらしたけれど、サクランボはパイにすると、とても美味しいんですって。アメリカで大使館づきの駐在武官をなされてたころ、ずいぶんあちらで召し上がったそうだわ。・・・ねえ、ばあや、聞いてる?」
 「はい、もちろん聞こえておりますよ、お嬢さま」
 「今度わたくし、ぜひ挑戦したいの、チェリーパイ。そのときは、ばあやもきっと手伝ってね」
 「はい、お手伝いしますとも、お嬢さま。ばあやは、いつもお嬢さまとご一緒」
 「まあ、うれしいこと。でも、ほんとうにかわいらしいサクランボじゃないこと? ばあやも、木の下においで。そこじゃ陽に焼けてしまいますよ、暑くなくって?」
 「まあ、心やさしいお嬢さまですこと。ずっとお傍に置いてくださいませ」
 下落合のお嬢さんは甘いため息をつくと、まるでゴールズワージーの小説を地でいくように、林檎の木の下ならぬ、桜の木の下で夢見ごこちに歌いだした。
 「♪さくら~の木の下で~ また明日あいましょう~・・・。大磯のおじさまは、ほんとうにおかわいそう。明日をも知れない戦争で、殺すの殺されるのなんてもうまっぴらです。・・・あっ、ねえばあや、あちらの文化村に和菓子屋さんができたのご存知? 道明寺がたいそう美味しいんですって。ちまたでは長命寺と呼ぶらしいのだけれど、道明寺の葉もソメイヨシノじゃなさそうだわ」
 「桜餅の葉は、たいてい大島桜でございますよ、お嬢さま」
 「大島って、まあ、伊豆の? 葉までいただくのは、はしたないのでしませんけれど、でも、とっても美味しそうないい香りがするのね。まあ、ばあやときたら、わたくしから離れて、どうしてそんなところにお立ちなの?」
 パリパリムシャムシャモゾモゾ・・・。そのとき、桜の木の下、うっすらと汗がにじんだ額へ、レースの縁取りのついた水色のハンカチをそっと当てていたお嬢さんの頭上から、かすかな音が響いてきた。パリパリムシャムシャモゾモゾ。お嬢さんが、ふっと何気なく見あげると・・・。

 パリパリムシャムシャモゾモゾ、パリパリムシャムシャモゾモゾ・・・。腹ぺこアオムシ君たちが、美味しい桜の葉っぱを夢中になって食べている。ちょうど、お嬢さんの親指ぐらいもありそうな、大きくて肥った、数えきれないほどのアオムシ君たちの群れだった。パリパリムシャムシャモゾモゾ・・・。
 「ば、ばあや!」
 「はは、はい、な、なんでございましょう、お嬢さま」
 「ど、どこへいくの?」
 「あ、あれえ、お嬢さまのお髪(ぐし)に、イ、イモ・・・」
 「ばあや、ねえ、わたくしを置き去りにしてどこへいくの!?」
 「い、いえねえ、ちょいといい按配に、大奥様のお遣いを思い出しまして」
 「ねえ、ばば、ばあや、お待ちなさい、ねえってば!」
 「ひっ、ひぇぇぇぇぇぇぇ・・・」
 「これっ、ばあや、あたしを置いてどこいくのさ!? ばあや、お待ち! も、もう、ニイタカヤマノボレの宣戦布告よ。早いとこ、進駐軍のDDTもっといで! ムシどもを、1匹残らずぶち殺してくれる! ・・・ねえ、いまさっき、いつも一緒だって言っただろ~!? ・・・聞こえてるのかい、ばあや、もどっといで!・・・・・・ば、ばばぁ、こらあ~~!!」