焼け跡もなまなましい、戦後すぐの下落合を上空から眺めたとき、無数の“ミステリーサークル”Click!が存在するのに気づいてから半年近く、ようやくその正体がつかめてきた。神田川の河岸沿い、早稲田から戸塚、下落合、上落合Click!、大久保(北新宿)にかけて、「百八塚」というキーワードが存在する。Webサイトを検索すると、いまやたった1ページの1箇所だけだが、新宿区観光協会サイトにそれは記述されている。
 http://www.shinjukuku-kankou.jp/map_ohkubo_12.html
 「百八塚」とは、無数に存在する墳墓という意味だ。鎌倉の覚園寺裏山(鎌倉アルプス)にも、「百八やぐら」という横穴式墳墓が存在する。後者のものは、鎌倉武士たちの横穴墓(やぐら)だが、下落合をはじめとする大小のサークルは、やはり古墳時代の前方後円墳(前期)、帆立貝式古墳(中後期)、巨大な円墳(後期)だったようだ。一連の「百八塚」のひとつと見られ、出土物が確認されて明確に古墳と断定されているサークルには次の4箇所がある。ほかに、大久保地区では明治期にいくつかの「百八塚」が崩されているが、発掘調査は行われていない。また、戸塚(十塚/富塚)地区には耕地化のために墳丘を崩し、出土物を寺などで供養した記録が庄屋文書に見えている。
●富塚古墳(前方後円墳)
 1963年(昭和38)に崩され、いまは早稲田大学9号館の下になっている。「戸塚」の地名由来となったといわれているが、別に戸塚村内には10基の墳丘(おそらく円墳)があったので、「十塚」が戸塚になったのだ・・・という記録も残されている。玄室をはじめ出土物は、いまは水稲荷神社の本殿裏に置かれている。
 

●大塚古墳/浅間塚古墳(円墳)
 上落合の月見岡八幡宮(移転前)は、もともと境内に巨大な古墳(円墳)があった。その古墳の頂上には、江戸期に盛んだった富士講の富士塚が築かれていた。1929年(昭和4)に、道路工事のために崩されてているが、その際に古墳期の埋蔵品が多数出土している。地名の字(あざな)として、昭和初期まで「大塚」の地名が残っていた。

●金塚(円墳)
 やはり神田川沿岸、上落合から小滝橋を南に下った、大久保村の一画にあった円墳。古墳の脇に奉られていた、おそらく江戸期の石地蔵「金塚地蔵」が現存している。ここからも、古墳の埋蔵物が発掘されている。新宿区教育委員会では、「百八塚」のひとつと規定しているようだ。また、金塚という名称もひっかかる。金(かね=鉄)の塚ということは、江戸期以前に多数の鉄器が出土していたのではないか?
●真王稲荷塚(円墳?)
 同じく、大久保の百人町にあった「百八塚」のひとつで、明治期に崩されている。塚の頂上には、稲荷の祠が奉られていた。品川赤羽鉄道(山手線)の建設時に崩されたと思われるが、本格的な発掘調査はされなかったようだ。ただし、「百八塚」のひとつだという伝承のみが、はっきりと地元に残っていたらしい。
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 「百八塚」を築いたのは、戸塚町の宝泉寺にゆかりのある「昌蓮」という僧だった・・・という伝説がある。だが、地元に「百八塚」のひとつだと伝わる丘陵を発掘すると、古墳の玄室や遺物が出土するところをみると、もともと古墳だった築山に“仏供養”の名目でなんらかの祠や碑を建ててまわったのではないか? なぜなら、早くから開墾され田畑になっていた区画にも、大きなサークルがいくつも観察できるからだ。「昌蓮」が田畑をあえてつぶして「百八塚」を築き、再び田畑にするために開墾された・・・とは、どう考えてもありえない話だからだ。それに、これだけ巨大な塚を無数に築くことなど、ひとりの僧の土木仕事と蓄財ではとうてい不可能だろう。
 こうしてみると、幸い耕地化のために崩されることなく、もともとそこにあった古墳の巨大な墳丘が、室町~江戸期に仏教や神道と結びついて信仰の対象となっていったのがわかる。すなわち、もともと古墳の墳丘であったものに手を加えて、富士講の「○○富士」にしたり、庚申講の「庚申塚」にしたり、大名屋敷の庭園に取りこんで築山にしたり、稲荷や八幡を奉って「稲荷塚」「八幡山」と称していたフシが見られるのだ。
 これを踏まえて、神田川沿岸を改めて眺めわたしてみると、新たにさまざまなことが発見できる。例をあげると、たとえば穴八幡(高田八幡)の「穴」とは、古墳の玄室へとつづく羨道穴であったことがわかる。穴八幡の境内からは、横穴式古墳または崩された古墳の玄室への羨道口が顔をのぞかせていた。(いまは工事中だが現存している) もちろん富士塚(高田富士)は、前方後円墳だった富塚古墳の築山をちゃっかり利用したものだ。また、旧肥後細川藩の下屋敷(新江戸川公園)の北辺にあったといわれている「鶴塚」と「亀塚」(のちに老松2本と判明)、さらに富塚古墳の近くにある戸山公園内の「箱根山」。「箱根山」は、従来の説明では尾張徳川家の下屋敷で、池泉回遊式の庭園を造るときに出た土砂を積みあげた・・・ということになっているが、ほんとうにそれだけだろうか?
 

 ほぼ正円をしているサークルが2つ重なる箱根山は、もともと円墳があったところへ造園で出た土砂をかぶせて、庭園の築山としたのではないか?(空中写真を見ると、その痕跡がある) 標高44.6mの箱根山は、庭園造成の単なる築山としてはあまりに巨大すぎるのだ。これまで一度も発掘されたことがないので、その正体はわからない。でも、もしこれが直径50mを超える巨大な円墳の重なりだとすれば、下落合に見える巨大なサークル群が古墳の痕跡であっても、なんら不思議ではない。しかも、下落合の旧田畑地に点在するサークルには、100m級もめずらしくないのだ。また、「箱根山」の近くには、穴八幡や富塚古墳はもちろん、古墳時代の住居遺跡を含む戸山遺跡が存在している。
 さて、話を下落合にもどせば、御留山の下には「丸山」という字(あざな)が古くから存在していた。首都圏では最大の、芝にある丸山古墳(前方後円墳)Click!の字も「丸山」だったことを考えあわせると、そこになんらかの人工的な築造物をどうしても想定してしまうのだ。神田川流域は、古墳時代における「南武蔵勢力」のテリトリーに属する。「百八塚」とは、古墳時代の前期~後期にいたる、神田川沿岸に築かれた膨大な古墳群ではなかったろうか?

■写真上:左は戸塚の穴八幡社(高田八幡社)、右は出現した横穴または玄室への羨道。
■写真中:左は1954年(昭和29)の富塚古墳。現在は早大9号館の下になってしまっている。右は、前方後円墳から出土した玄室。いまは甘泉園隣り、水稲荷社の本殿裏に再現されている。
■写真中:1911年(明治44)に撮られた月見岡八幡社(上落合)の境内。左手に大きな円墳があり、「大塚」または富士信仰から「浅間塚」(富士塚)と呼ばれていた。その後、月見岡八幡は移転し円墳は道路の下になってしまう。
■写真下:左は現在の木々が繁る「箱根山」、右は1970年代の同山。樹木が成長しておらず、築山のかたちがよくわかる。