以前、岩波文庫の「復刻」だか「大きな活字による再版」だったか、読者が選ぶ人気作品の第1位は、中勘助の『銀の匙』だった。「岩波文庫の100冊」の企画でも、『銀の匙』は確か夏目漱石の作品に次いで、読者が選ぶ好きな作品の第3位にランクインしていたと思う。中勘助は、漱石山房の「木曜会」にはほとんど出席しなかったようだが、漱石が「子供の世界の描写として未曽有のものである」・・・と激賞していたことを、のちに和辻哲郎が書きとめている。
 だが、同じ子供時代の世界を描いた作品としては、わたしは『銀の匙』よりも、長谷川時雨の『旧聞日本橋』のほうが圧倒的に好きだ。理由は、しごくカンタン明瞭。中勘助の子供世界は、山手に漂うわたしにとって「異文化」の匂いがするが(また憧れもするけれど)、長谷川時雨の描く世界はどっぷりと日本橋の空気が漂う、すなわち本来の「大江戸→東京」の匂いがするからだ。そう、長谷川時雨は通油町に産まれ育った。わたしの実家があった日本橋米沢町/薬研堀界隈から、わずか400mほどしか離れていない。いま風にいえば、彼女は日本橋大伝馬町、わたしは東日本橋の産でほとんど同じ町内同士というわけだ。
 長谷川時雨(1879~1941)の子供時代のあだ名は、安本丹(アンポンタン)=(愛情がこもったニュアンスの)おバカさん。なにかに興味を持つと、とことん最後まで観察して調べないと気がすまない凝り性の性格から、おそらく「よい加減というもんを知らねえおまえは、アンポンタンだ」と周囲から言われたのだろう。小学校しか出ていない彼女だが、同時代の女性でこれほどアタマがよく、勘の鋭い人はほかにいないのではないかと、わたしはひそかに思っている。学歴の高さとアタマの良さが、必ずしも比例しないのはいつの世でも同じことだ。アンポンタン時雨は、日本橋界隈の景色や風情、人々の機微にいたるまで作品へ見事に活写している。
 さて、長谷川時雨がすごいのは、「婦人解放」の専門誌『女人藝術』を発行して自ら作品を発表したのにとどまらず、数多くの新人作家を発掘したことだ。ときに、女の“夏目漱石”と言われるゆえんだろう。そして、その新人たちの多くは、なんと下落合とその周辺に在住していた作家や評論家が多い。平林たい子、神近市子、宮本百合子、矢田津世子、大田洋子、中本たか子、円地(上田)文子、山川菊枝、林芙美子・・・と、彼女が世に送り出した作家や評論家は、「目白文化村」シリーズClick!で顔を見せた下落合界隈の人々が目につく。稼いだカネは、惜しげもなく『女人藝術』へ注ぎこんで、新人たちへ作品発表のメディアを提供しつづけた。
 

 オツにすましてはいるが、我がとても強く癇も強そうな彼女のポートレートを見るたびに、わたしはうちの古いアルバムに残る、セピアに変色した祖母の写真を思い出す。ことさら遊びと美味(うま)いもんに目がなく、野暮天とヘビが大嫌いで、ふだんは寛容でふところは深いのだが一度キレたら「マジこわ」の、典型的な東京の町場女性の顔をしている。どこか可憐さを備えている、本郷のアイドルが樋口一葉で、下落合のアイドルが九条武子Click!(東京女性じゃないが)だとすると、日本橋のアイドルは間違いなく長谷川時雨だ。
 父親(代言人=弁護士)の隠居とともに、油町からこれまた独特の磁気をおびた佃島の“別荘”へ引っ越ししているのも、うらやましい限りだ。もっとも、戦前当時の日本橋なり佃島だから、わたしはうらやましく感じるのだが・・・。長谷川時雨よりも20歳あまり年下だったうちの祖母と同様、東京大空襲を知らずに亡くなったのは、かえって幸せだったのかもしれない。

■写真上:左は『旧聞日本橋』(岩波文庫)と、右は50歳ごろの長谷川時雨。
■写真下:左は山手の“異文化”が香る『銀の匙』(岩波文庫)と、右は金鱗堂・尾張屋清七版「日本橋北・内神田・両国浜町明細絵図」1863年(文久3)。