神田上水が分水となる椿山下の大堰あたり、その昔は大滝橋と呼ばれた界隈から(小滝橋があって大滝橋がないと言われていた方、ここですよ(^^)、飯田橋にある江戸期からの舩河原橋まで、つまり外堀への出口にかけて、その昔、神田川は「江戸川」と呼ばれていた。いまでも、江戸川橋や江戸川公園などに名前が残っている。江戸川は、いまでこそほとんどが高速道路(高速5号線)の下になってしまっているが、「江戸川の花見」Click!は東京じゅうに聞こえた桜並木の名所だった。そしてもうひとつ、江戸川はうなぎの名所でもあったのだ。
 「う」屋へ行くと、いまでは浜名湖や台湾の養殖うなぎがあたりまえだが、東京に養殖うなぎが出まわりだしたのは、それほど古い話ではない。明治以降、戦前までは江戸川河畔に軒を連ねていた「う」問屋から、東京じゅうへ生きたうなぎが出荷されていた。江戸時代後期における、ちょうど深川の鮮魚生簀街のような存在だった。中には養殖ものも含まれていたようだが、天然うなぎがまだたくさんいた時代だ。それらを、うなぎ市場で仕入れてきては、生きたまま江戸川の生簀で飼っていた。
 そう、いまでこそ「う」は、築地の魚市場でも扱われているが、江戸期から長い間、ずっと魚市場の取り引きからは締め出され、仲間には入れてもらえなかった。うなぎが海の魚ではなく、川や掘割などにいる淡水魚だったからだ。だから、うなぎは魚屋では扱わず、「御かばやき」屋として独自に専門店化していくことになる。そこに、大江戸ならではの「う」文化が形成されたといってもいい。少し前まで、江戸川のうなぎ問屋街の老舗「丸セ商店」が残っていたが、いまは店を閉じてしまったのか見あたらない。あたりまえだが、江戸川に生簀があったのは戦前の話で、戦後は護岸工事や高速道路建設によって、うなぎ問屋のほとんどは四散してしまった。
 長く伸びた独特の「う」、あるいは「うなぎ」と書いた看板を掲げて、蒲焼屋を営業するようになったのは、そんなに昔からのことではない。宮川曼魚の『深川うなぎ』には、蕎麦屋が看板に「生蕎麦」と書かず「おそば」と書くようになった時期とまったく同時で、大正の初期ごろからと書かれている。それまでは、「江戸前大かばやき」ないしは「江戸前御蒲焼」という看板が主流だった。明治維新後は「江戸前」を取って、単に「御かばやき」と書く看板が多かったようだ。
 三田村鳶魚は、1754年(宝暦4)ごろには、「江戸前うなぎ」という概念が存在していたことを指摘している。つまり、江戸期には「江戸前」がイコール「うなぎ」という意味につかわれていた時期があった。もともと、「江戸前」というのは、千代田城の前、つまり御城下町=「下町」のことを指していたが、それがいつのまにか「う」を指す言葉にスライドしていった。確かに縦横に走る川や掘割=町中でも、うなぎはゴマンと獲れたのだろう。「江戸前」という言葉がにぎり寿司と結びついて、江戸湾のことを指すようになるのは、かなりあとのことだ。この「江戸前」に「下町」という用語は、対をなすようにつかわれる「山手」とは、本来、まったく関わりのない用語だったのだが、それを書き出すと長くなるので、また別の機会に・・・。

 「う」の蒲焼屋が市中に普及していったのは、かなり以前からだったようだ。江戸初期(元禄前後)には、すでに上野には「大和屋」という蒲焼屋があったことが知られている。上野は池波正太郎の小説で有名になった、いわゆるケコロという、おもに坊主相手の私娼の見世がならんでいた場所だが、大和屋はそのすぐそばにあったため・・・
  かばやきと ばかりですまぬ 所なり
  かばやきを 食って隣へ むぐりこみ
  かばやきの せいでとなりも はやるなり
 ・・・なんて川柳が、盛んに詠まれていた。ちょうど位置的には、現在の上野駅の真下あたりだ。下総の濃口醤油(江戸紫)の普及と、うなぎの蒲焼の普及はシンクロしていたと思われる。幕末の1846年(嘉永元)に、東都蒼先堂から出版された『江戸酒店手引』には、市中の代表的な蒲焼屋90店が紹介されているが、すでに神田川沿いの「う」は、深川の永代寺門前や八幡門前と並んで有名だったらしく、数多くの見世が収録されている。わたしが数えたところでは、神田川沿いの「う」は9軒もあった。幕末に近い大江戸全域で、神田川沿岸からピックアップされた代表店が10%も占めている。この下地があったから、明治以降、うなぎ問屋が神田川(江戸川)べりに進出し、問屋街が形成されていったのだろう。
 江戸川沿い(江戸川橋~飯田橋)で、江戸時代からいまにつづく「う」は、いまや石切橋の「はし本」ただ1軒しか残っていない。

■写真上:左は、うなぎ問屋が軒を連ね桜の名所だった旧・江戸川べり。桜並木は、上流の旧・神田上水側へと移った。右は明治期の同所。
■写真下:大正初期から流行となった、「う」独特の看板文字。この看板は「なぎ」まで書かれてない下町風だ。町場では周知のことなので、「う」と長く1文字の看板が多い。