西武電気鉄道(西武新宿線)が高田馬場まで開通すると、ひとつめの駅である下落合駅があまりに高田馬場駅に近すぎたため、西へ大きく移動したことは以前に書いた。まったく同様に、武蔵野鉄道(西武池袋線)のひとつめの駅、「上屋敷」(あがりやしき)駅も池袋に近すぎたため、こちらは西へ移動もせずに戦後、あっさりと消滅してしまった。
 上屋敷駅は、現在の目白庭園の北側あたりにあった小さな駅で、線路際のスペースのみが広めに残る元・下落合駅跡Click!とは異なり、いまでも上屋敷駅のプラットホームの痕跡ははっきりと残っている。もともと、下落合駅と中井駅の間がかなり離れていたため、下落合駅は西に移動することで生き残れたわけだが、上屋敷駅の場合は次の椎名町駅も、たいして池袋から離れていなかったため、戦後、電車のスピードアップとともに廃駅となってしまったのだろう。
 この周辺に住む人たちが「徳川さんの森」と呼んでいる、旧・徳川邸(徳川黎明会)があったから、あるいは、さらにその前の昭和初期に戸田邸(紀州徳川家の姻戚)があったから、上屋敷駅と名づけられたのだろうと思われている方が多いが、上屋敷は雑司ヶ谷に昔からあった地名だ。いまの西池袋は、その昔、住所表記は雑司ヶ谷(大字)であり上屋敷(小字)だった。いまでも、かろうじて上屋敷公園にその地名が残されている。ついでに、現在は豊島区目白と住所がふられている西武池袋線の南側は、東半分が雑司ヶ谷旭出町(ひでちょう)という地名だった。
 

 下落合の西半分、旧・3丁目~4丁目が、中落合や中井という住居表示になる少し前に、雑司ヶ谷の上屋敷は西池袋と、味もそっけもない地名に変えられてしまった。地名変更の反対運動は根強くつづき、いまだ納得できない人たちは、表札の住所表記をあえて「雑司ヶ谷」として残している。下落合の崖線下につづく鎌倉古道(雑司ヶ谷道)は、現在も地名として残る雑司ヶ谷へと抜ける道という意味のほか、昔から広く雑司ヶ谷と呼ばれた地域の南をつらぬく街道だったことにも由来している。
 「女の子の脚を見るなら上屋敷」などと、不埒なことが言われていた時代があったそうだ。まだ、ミニスカートが流行るはるか昔のことだった。この駅の北側を、200mほど歩いたところにある自由学園の女生徒たちが、短めのスカートをはいて上屋敷駅を利用したからとも、キャンパスの芝生の上で体操する彼女たちがショートパンツ姿だったからとも言われているが、いまとなっては定かでない。芝生で体操が始まると、学園前の道には見物する人垣(男垣)ができたらしいが、いまなら即変質者と決めつけられて警察に通報されてしまうだろう。
 

 上屋敷駅跡の南側、目白庭園と『赤い鳥』を発刊していた旧・鈴木三重吉邸のすぐ近くに、おそらく大正末から昭和初期の建物とみられる古そうなお屋敷が残っている。このお屋敷が面白いのは、大きな納屋がある名主屋敷のような建物の東側に、目白文化村を思わせるハイカラな西洋館建築をドッキングさせているところだ。地方へ行けばまだ残っている風情かもしれないが、東京の街中ではめったに見られない、いまや非常に貴重な建築だろう。空中写真にも、戦災からまぬがれた様子がきれいに写っている。
 武蔵野鉄道・上屋敷駅は、いまもところどころに残る濃い森に囲まれ、戸田邸や徳川邸などの大屋敷に囲まれ、ときに城渓女学校や自由学園の女学生たちの黄色い声に囲まれた、山手の幸福な駅のひとつだった。プラットホーム跡の草むらで、夏の虫が鳴いている。

■写真上:上屋敷駅の痕跡。元プラットホームだったところの礎石上が、草むらとなっている。
■写真中:昭和初期(1935年)の上屋敷駅と、戦後(1947年)の同駅。
■写真下:納屋(左)が残るお屋敷。大農家とモダンな西洋館をくっつけた、これぞ究極の和洋折衷。