その昔、馬場下道と呼ばれていた道筋から、田島橋をわたると右手正面に、ハッと立ち止まりジッと眺めてしまう建物がある。大正期に造られた東京電力「目白変電所」だ。地名を取るなら「上戸塚変電所」、駅名を取るなら「高田馬場変電所」となるはずなのに、なんで「目白変電所」なんだよ?・・・という疑問はさておき、この特異なフォルムの建築デザインのせいか、以前こちらでご紹介した水道塔Click!と同様、画家たちのスケッチ画題に好まれたようだ。
 

 目白文化村Click!の第二文化村から、西へとたどる尾根道南の四ノ坂に、画家の松本竣介が住んでいた。東京生まれの彼は、父親の仕事で盛岡へと引っ越し、中学時代をすごすことになる。だが、流行性脳脊髄膜炎にかかり耳がまったく聴こえなくなってしまった。授業についていけず、父親は彼に絵の道具一式を与えた。東京にもどった彼は、本格的に絵の勉強をはじめ、やがて旧・下落合4丁目(現・中井2丁目)にアトリエを構える。
 松本竣介は、都会の風景や人物とともに、ことのほか橋を好んでよく描いた。中でも「Y橋」シリーズが有名だが、下落合界隈を散策しながら描いた、神田川沿いにかかる橋のスケッチも残している。父親が岩手で宮沢賢治と知り合いだったせいか、どこか賢治のイーハトヴ・ワールドを想わせるような感性が、一時期の作品には漂っている。特に彼が気に入った風景は、特異なデザインの目白変電所が建つ田島橋だった。神奈川近代美術館に所蔵されている、自身を手前に立たせて描いた代表作『立てる像』(1942年・昭和17)には、背後の田島橋とともに戦時中の目白変電所が見えている。
 

 目白変電所が造られたのは、1913年(大正2)に東京電燈(現・東京電力)の鹿留発電所(山梨県)が、営業を開始したのと同時期だ。当時の正式名称は、東京電燈「谷村線目白変電所」だった。当時は田畑がまだ多く残る、東京の郊外だった上戸塚の北辺、神田川沿いにとてもモダンでしゃれたデザインの変電所は、かなり目立つ存在だったろう。松本竣介が描いた絵でも、その特異なフォルムの存在感が、周囲の建物を圧倒しているような印象を受ける。

 松本竣介は1945年(昭和20)、召集もされずに無事戦後を迎えられはしたが、戦時中からの疲労と栄養失調が災いして、1948年(昭和23)6月、旧・下落合4丁目の自宅で死去した。わずか36歳の生涯だった。彼のアトリエは空襲をまぬがれたが、その後遺族の手で自宅は建てかえられている。

■写真上:東京電燈「谷村線目白変電所」の現状。戦前とはデザインが異なり、建屋のかたちに手が入れられている。手前が田島橋。
■写真中上:左は、昭和10年代と思われる変電所と田島橋のスケッチ。右は、目白変電所の側面。
■写真中下:左は鎌倉にある神奈川近代美術館蔵の『立てる像』(1942年)。右は5年後、1947年(昭和22)の田島橋と変電所。赤い矢印が、『立てる像』の描画方向。周囲は空襲で焼け野原だが、コンクリートで頑丈に造られた目白変電所の建物だけがなんとか残っている。
■写真下:1947年(昭和22)の、下落合4丁目(現・中井2丁目)自宅上空。自宅の北側に、アトリエと思われる小さな離れ屋が見えている。この空中写真が撮られたとき、まだ松本竣介は存命だったから、眼下で第2回美術団体連合展へ出品する作品に取り組んでいたかもしれない。