1976年(昭和51)に、山田太一原作で放送されたドラマ『高原へいらっしゃい』(主演・田宮二郎)は、1968年(昭和43)に移築・改造された「八ヶ岳高原ヒュッテ」がロケ地となった。ドラマが放送開始になる8年前には、「八ヶ岳高原ヒュッテ」は目白に建っていた。もちろん、当時はホテルなどではなく、尾張徳川家19代・徳川義親侯爵の自宅だった。
 目白の徳川邸は、明治期からの戸田邸跡(紀州徳川家の姻戚)へ1934年(昭和9)に建築されている。目白・下落合地区では、比較的新しい西洋建築だった。イギリスのチューダー洋式を模した建物は、建築家の渡辺仁が図面を引き、義親が手がけた開拓事業の関係からか、北海道の原生林木をふんだんに使用して建てられた。ちなみに、昔からアイヌ民族の間でキムンカムイ(山の神)を形象化して商売にしていいのか?・・・という議論がくすぶりつづける、北海道土産で有名な木彫りのヒグマ(山おやじ)は、地場の名物・名産を作るためにと、この人が初めて発案したものだそうだ。1945年(昭和20)4月13日および5月25日の空襲にも焼けず、戦後しばらくは青山の校舎が全焼してしまった女子学習院(現・学習院女子大学)の校舎に開放され、その後はベルギー大使館などにも屋敷は利用されていた。
 徳川義親という人は、周囲から頼られたり、お願いごとをされたりするとイヤとは言えない性格だったようで、旧・尾張藩士たちに無償で土地をあげてしまったり、貴族院議員のかたわら社会主義者やアナーキストたちを援助しつづけたり、陸軍の皇道派系の将校へ資金提供をしたり、虎狩りで有名になると「トラ刈り」つながりで日本理髪業組合の会長を務めたり、戦後は日本社会党設立のために資金を供出して、もう少しで党首にされそうになったり、池袋観光協会会長を務めたり・・・と、かなり魅力的でシャレもわかる、「なんでもあり」の面白い“殿様”だったようだ。
 

 戦後すぐ、女子学習院に自宅を一時乗っ取られてしまったのも、近くの学習院から「お願いしますよ~」と泣きつかれたので、つい「いいよ~」と答えてしまったからに違いない。それとも、邸内を闊歩する女学生たちを見ながら、ニコニコしていたものか。1968年に観光開発会社の西洋観光開発から、八ヶ岳にヒュッテを開設するために「自宅を丸ごと譲ってください」と話を持ちかけられたときも、あっさり「いいよ~」と承諾してしまったようなのだ。東京育ちらしく出雲神(特にスサノオ/尾張熱田のつながりもあるだろう)が大好きで、北海道開拓時には函館の北に八雲町(村)を開設している。1986年(昭和61)に亡くなっているが、もう20年ほど長生きしていただければ、「下落合みどりトラスト基金」へ屋敷森保存の不足分を「いいよ~」と、ポンと出していただけたかもしれない。(><;☆\
 

 現在は、敷地のほとんどが徳川ビレッジの住宅街となり、その西端には徳川黎明会が建っている。西武池袋線を挟み、その両側には徳川邸と同時期、昭和初期に立てられたと見られる西洋館がポツンポツンと残っている。目白駅や池袋駅が近いにもかかわらず、旧・武蔵野鉄道の上屋敷(あがりやしき)駅周辺Click!は、奇跡的に空襲をまぬがれた一画だった。

■写真上:徳川家の広大な敷地の西端、いまは徳川黎明会の建物がある。
■写真中:左は、1947年(昭和22)に撮影された目白の尾張徳川邸上空。ちょうど女子学習院に使用されていたころだ。戦時中の名残りか、屋敷の庭園が畑になっているのが見える。右は、移築された八ヶ岳高原ヒュッテの現状。左の空中写真と比べてみると、ヒュッテになってから屋根裏部屋の窓がすべて塞がれているのがわかる。
■写真下:左は、「西池袋」という新住所が気に入らず、いまだ「雑司谷町」の表札を掲げるお宅が散見される。右は、自由学園近くの昭和初期とみられる和洋折衷住宅の洋館部。斜向かいには、童話作家・坪田譲治の旧邸跡がある。