小学生のころ、図書室へ入ると真っ先に駆けつける本棚があった。棚には偕成社だか筑摩書房、あるいは秋田書店だったかが出版していた、『少年少女世界のノンフィクション』(確かそんなシリーズ名だった)がそろっていたからだ。「空とぶ円盤のなぞ」とか「ネス湖のかいじゅう」とか、「ヒマラヤの雪男」とか「さまよえる湖」とか、とにかく男の子が喜びそうなタイトルが並んでいた。雨が降って外で遊べないときは、そんな本を読みながら日が暮れるまですごしていた。
 その中に、「戦艦大和のさいご」というのがあった。吉田満原作の『戦艦大和ノ最期』を、子供向けに口語体でやさしく書き直したものだ。いまでは、内容も挿絵もほとんど憶えていないのだが、なぜ強く印象に残っているのかというと、この本を読んでからしばらくして親父の書棚を見たときに、同じ著者の『戦艦大和』(角川文庫版/1968年)が目についたからだ。もちろん、大人向けの本なので読みはしなかったし、ましてや所収の『戦艦大和の最期』(角川文庫版はカタカナではなくひらがな表記)は文語調で書かれていて小学生には歯が立たなかった。でも、中扉の次に掲載された図版に、なぜか強く惹きつけられたのだ。
 それは、東京駅と戦艦「大和」を比較したもので、全長263mの「大和」と正面から見た東京駅とが重なって描かれている図版だった。喫水下まで描かれている「大和」のかたちは、東京駅の形状から大きくはみ出していて、当時、「こんなにデカかったのか」・・・と改めて驚いたのを憶えている。そしてもうひとつ、ほとんど同じ時期に小学校の映画上映会にやってきた作品というのが、偶然にも吉田満・原作の『戦艦大和』(監督・阿部豊/1953年)だった。なぜ、この大人向けで難解な作品が小学校で上映されたのか、いまでも判然としないのだが、小学生の脳裏に「せんかんやまと」というワードを刻みつけるには充分だった。
 
 作戦と呼ぶのもおこがましい、「必敗」の「天号作戦」に直面した乗組員たちは、なぜ死ななければならないのか?・・・を連日自問し、議論しつづけることになる。自からの死をムダ死にとして捉えることを拒否するために、そこへなんらかの歴史的な意味・理由づけ、“レゾンデートル”が必要なのだ。その眼差しは、驚くほどクールかつ冷ややかだった。「御国のため」とか「家族を守るため」、「天皇陛下バンザイ!」とか、叙情的・感情的かつ抽象的な“想い”は捨象され、流れ去る歴史の中の必然的な“論理”として、個々の主体を必死に位置づけようと試みている。とうに日本が戦争に負けることを前提とした、それは絶望的な議論だった。その末に行きついた「結論」らしき、21歳になる「臼淵大尉の持論」が象徴的だ。
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 「進歩のない者は決して勝たない 負けて目ざめることが最上の道だ/日本は進歩ということを軽んじ過ぎた 私的な潔癖や徳義にこだわって、本当の進歩を忘れていた 敗れて目覚める、それ以外にどうして日本が救われるか 今目覚めずしていつ救われるか 俺たちはその先導になるのだ 日本の新生にさきがけて散る まさに本望じゃないか」(「作戦発動」より)
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 感情に目がくらまず、まるでヘ翁(ヘーゲル/当時の学生呼称)の弁証法のような論議がつづけられたのは、高等教育を受けた士官が集まる煙草盆(休憩室)だったからであり、下級の兵員たちの様相とはまったく異なっていた・・・という評論を目にすることがある。確かにそうだろう。より隷属させられていた兵員たちは、「御国の光」と「銃後の家族」を守ることだけをせいいっぱい考え、あるいは今日的な表現をするなら、あたかも「将軍様マンセー!」に近い感情を抱いていた者も少なからずいたかもしれない。でも・・・と思うのだ。

 男女群島の南130kmで撃沈された「大和」の中に、死に瀕してこれだけのことを連日議論しつづけた理性が、少なからず残っていたことにこそ救いがあり、わたしたちの時代にとって非常に大きな意味があるのだと思う。学校の校門で毎日「御真影」に最敬礼させられつづけようが、「小雨にけぶる神宮外苑」で一糸乱れぬ分列行進をさせられようが、どれほど「大本営陸海軍部」からウソで糊塗した発表を繰り返し聞かされようが、ついに彼らの理性を曇らせることはできなかったのだ。そして、吉田満は生還し、かけがえのない記録文学を残した。
 戦艦「大和」が表現されるたび、撃沈された季節柄、ちょうどサクラの花弁が散る“滅びの美”的なありさまとともに、ことさら情緒的かつ感傷的な“想い”ばかりクローズアップされるのが、とても気になっている。文字どおり、生命を賭した“自己否定”の上に、未来の“肯定”を見いだし築こうと試みた、理性的かつポジティブな彼らに対し、失礼ではないのか。

■写真上:戦艦「大和」と東京駅(近未来)。「大和」の前檣楼トップが白く塗られ、サイドの副砲が撤去されていないので、1942年(昭和17)夏ごろの柱島泊地かトラック島の艦姿だろう。翌年、旗艦設備を備えた「大和」よりも排水量がやや大きな、同型艦の「武蔵」に聨合艦隊旗艦が移っている。
■写真中:左は、『戦艦大和』吉田満(角川文庫/1968年)。右は、米軍機より撮られた空襲直前の「大和」。白いウェーキーが大きく、爆弾や魚雷を避けるため最大戦速で、右へ急速回頭中のようだ。
■写真下:男女群島の南130km、北緯30度43分・東経128度04分、水深350m海底の「大和」。(艦首部) 1999年(平成11)8月20日の「朝日新聞」より。