1927年(昭和2)に開業した西武電気鉄道(現・西武新宿線)は、大正の末、駅舎の設計を早稲田大学にまかせた。下落合に箱根土地(株)を創業し、1922年(大正11)から目白文化村Click!の分譲をはじめていた堤康次郎の母校だからだろう。大学を出てからも、堤と早大当局との関係は深くつづき、目白文化村分譲の少し前には、大隈重信に借金の保証人になってもらったりもしている。
 当時のコンペティションでは、早大の理工学部に在籍していた、現役学生の設計デザインが採用されている。三角のとんがり屋根がのった駅舎は、いかにも東京郊外の新山手を走る鉄道らしい、上品でこじんまりとした風情が漂っていた。

 1928年(昭和3)まで、氷川明神のまん前にあった下落合駅も、当初はとんがり屋根をしていただろう。開業当時の下落合駅舎の写真はまだ入手できないでいるが、昭和初期の中井駅舎の写真を見れば、双子の同一デザインだった下落合駅舎の様子を知ることができる。三角デザインの赤い屋根の駅舎は、関東大震災のあと、すでに当時の山手線などでも採用されていたので、特に斬新なデザインではなかったかもしれないが、よりコンパクトでかわいい西武電気鉄道の駅舎は、周辺の住民たちから好まれ、たいへん親しまれていたようだ。この駅舎デザインは、客車が走り始めた武蔵野鉄道(現・西武池袋線)でも、同様に見られたのかもしれない。
 下落合駅が氷川明神前から、現在の聖母坂下へと移動Click!した際にも、同じ駅舎デザインが踏襲されていたのだろうか? 下落合駅は中井駅とともに空襲で焼かれ、戦後の駅舎は統一デザインではなくバラバラに建てられていった。だが、堤の箱根土地の仕事らしく、大谷石を几帳面に積み上げたプラットホームは、まったく変わらずに元のままだ。わたしの学生時代、下落合駅のプラットホームはいまよりも短く、大谷石による石組み上部にコンクリートが敷かれた状態だった。現在は、コンクリートで補修された箇所が多くなり、大谷石が露出している部分は少ない。でも、ふとホームの下、線路際に目をおとすと、昭和初期の下落合駅がそのまま顔をのぞかせている。
 
 1925年(大正15)ごろ、目白文化村の分譲を終えた箱根土地は、つづけて中央線の国立駅周辺を開発するために、本社を国立市へと移転した。田園調布に先行して、ビバリーヒルズを模した目白文化村の分譲に成功した堤だが、パリを模した田園調布のような町づくりにも惹かれたものか、国立駅周辺では目白文化村とはまったく異なるコンセプトで町づくりを推し進めることになる。また、東海道線の沿線、小田原に近い国府津駅周辺の開発にも乗り出し、少し手前の大磯に拠点を設けていた。
 
 箱根土地が建設し、鉄道省に寄付した中央線の国立駅と、東海道線の旧・国府津駅の駅舎(昭和初期)は、やはり三角デザインの赤い屋根をしている。これらの駅舎は、西武電気鉄道に見られる駅舎の拡大版なのだろうか? それとも逆に、西武電気鉄道の駅舎がそれらのミニチュアなのだろうか? いずれも、ほぼ1925年(大正15)前後の箱根土地による設計デザインなので、にわかには決めがたい。

■写真上:下落合駅のプラットホームは、いまだ昭和初期に造られた大谷石の石組みが現役だ。
■写真中上:下落合駅が西へと移動する前の「下落合踏切」。駅が氷川明神の前にあったころで、1926年(昭和2)ごろの撮影と思われる。現在は、この踏切の向こう側に下落合駅とプラットホームが迫り、左へ行くと聖母坂、右手には高層の落合パークファミリア・マンションが建っている。
■写真中下:左は、昭和初期の中井駅舎。右には目白崖線「ムウドンの丘」Click!が見え、丘上には第二文化村が拡がっていた。右は、大谷石の石組みの様子がよくわかる中井駅のホーム。改正道路(山手通り)の陸橋がすでに完成しているので、1947年(昭和22)以降の撮影と思われる。
■写真下:左は、箱根土地が建設した中央線・国立駅。箱根土地本社は大正末、下落合から国立駅前へと移転した。右は、旧・国府津駅舎に似ているといわれる大磯駅舎。いずれも、箱根土地好みのとんがり三角屋根デザイン。

松本竣介『N駅近く』(1940年・昭和15)