すっかり蔦で覆われてしまった、昔ながらの引き戸の玄関。郵便受けのところだけが露出して、すぐ前に自転車が停められているところをみると、どなたかが現在も住まわれているのだろうか。でも、どうやって屋内へ入ったらいいのだろう? これで夜になると、室内にボッと30Wぐらいの白熱球が灯ったら、かなり怖いんじゃないかと思う。
 少し前だが、下落合にも同様のお宅があった。家本来の姿がすっぽりと蔦に覆われて見えないので、バルガス=リョサではないけれど「緑の家」と呼んでいた。出入り口から壁面、窓、ベランダ、屋根にいたるまでが、つまり家屋全体が濃い蔦に覆われていて、とても人が住んでいるようには見えなかったのだが、ある日突然、蔦の表面に、いや実際には窓の手すりのところに新品のBSアンテナが設置されて、ビックリしたことがある。ということは、家全体を覆う蔦は、住民の方の好み・・・というか、意図的に趣味で這わせていることになる。蔦のからまる風情が、大好きな人でも住んでいたのかもしれない。
 蔦を家にからませると、壁が蔦の根張りでもろくなったり、屋根や雨どいを侵食されたり、枯葉が詰まって腐食したり・・・と、デメリットばかりが思いついてしまうけれど、家じゅう蔦だらけというメリットは、はたしてなんだろう? 夏、涼しいのはわかる。ブラインドもカーテンも簾も、いらないかもしれない。部屋の中が緑色の光で包まれて、まるで木陰にいるような雰囲気になるのだろうか? ご飯の色も、ゆで卵の色も、白い家具もシーツも、白打掛に白無垢さえも緑色になりそうだけれど、緑色大好き人間にはたまらないかもしれない。いや、秋になれば紅葉して一転「紅い家」となり、窓辺から紅色が室内に照り映えるものか。

 地震が起きたときに、頑丈な蔦が家全体を覆っていると振動を吸収してくれて耐震効果がある・・・なんてこともあるのかも。蔦の根が、テントのペグがわりというわけだ。でも、華奢な木造家屋だったらヘタをすると地震が来る前に、蔦の張力に引っぱられて傾いたり、壁面が剥がれ落ちたりすることはないのだろうか。山手では、蔦のからまる住宅をよく見るけれど、家と家とが建てこんだ下町では、ほとんど見かけない。家に蔦がからまれば、すぐにも隣りの家まで侵食してしまって苦情を言われるからだろうし、防火のうえからも秋冬の枯れた蔦葉は危険なのだ。
 蔦のからまる屋敷にはあこがれるけど、四季折々にちゃんと手入れをするのが、かなりたいへんなのではないか。放っておくと、あっという間に写真の玄関のようになってしまう。でも、貧弱で華奢な家に住みながらも、つい蔦のからまる家にあこがれてしまうのは、下町人間の哀れな性なのかもしれない。そう、手入れがたいへんじゃないかなんて、あらぬ心配をする必要はない。山手では家人が蔦の手入れをするなんてことはなくて、ちゃんと昔から出入りしている植木職人がいるのだった。

■写真:蔦のからまる家が多い、旧・桜ヶ丘パルテノン(長崎)Click!あたり。