1945年(昭和20)5月25日深夜、早稲田一帯がB29による空襲にみまわれたとき、牛込馬場下の夏目漱石旧邸跡に隣接する、1678年(延宝6)創業の小倉屋酒店さんでは、取るものもとりあえず家宝の五合枡を抱えて避難したそうだ。NHKの歴史番組などにも登場した、少し黒ずんだこの五合枡が、高田馬場(たかたのばば)へと向かう中山(堀部)安兵衛が枡酒をひっかけた、当時そのままの枡だといわれている。
 芝居や講談などでは、枡酒を一気に1杯(一升)ひっかけたことになっているのだが、残っているのが五合枡のところをみると、2杯ひっかけないと勘定が合わないじゃないか・・・なんて細かなところは、深く追及してもはじまらない。なにしろ、300年以上も前の話なのだ。つじつまが合わないところは、他にもゴマンとある。
 助太刀の斬りあいを控えているのに、八丁堀から高田馬場へ駆けつけるなんて、どんなに江戸時代の人が健脚だったとしてもありえない。史実では当時、中山安兵衛は加賀町(市ヶ谷)の武家屋敷に勤務していたので、ここから高田馬場までだったらほんの2kmほどだ。走ったとすればこの距離だけれど、最近では加賀町から馬場下の小倉屋さんまで歩いてきて、ここからようやく走り出した・・・なんて解釈も登場している。剣術の修行も、実際にはこの斬り合いのあと本格的に習いはじめたのが事実のようで、高田馬場へ駆けつけたときから剣客だったように描かれるのは、どうやら脚色された誤りのようだ。
 
 さて、実際に斬ったのは何人だったのか? 芝居や講談では18人とされているけれど、これもせいぜい3~4人、いや、駆けつけたときはもう遅くて決闘はとうに終わっており、ひとりも斬らなかったのだ・・・という説まである。たぶん、18人というのはとてつもなく脚色されているか、または真っ赤なウソだろう。なにしろ、堀部弥兵衛の娘のお幸は、この決闘場で中山安兵衛のサムライぶりを見初めて、やがては婿にもらうことになるのだが、これが史実だと、見初めるお幸はわずか4歳だったことになってしまう。これに始まったことではないが、もうウソ八百だらけの芝居や講談の世界なのだ。
 斬りあいをひかえ、果たして一升酒を飲むかどうかも議論の多いところ。ふつうは注意力が散漫になるので、まずは飲まないだろう。だけど、剣術に自信のなかった24歳当時の中山安兵衛が、それでも助太刀に向かわなければならなかったとするなら、強度の緊張感をやわらげるため、あるいは刃先が肌をかすった際の痛みを緩和するために、飲まずにはいられなかったのかもしれない。このあたり、ほんの少しだがリアリティを感じるのだ。
 でも、酔っ払ってしまったら最後、刃筋を立てる(刀で対象物を斬る技術)ことなど、まず無理だろう。ハイな気分になって、二尺三寸(江戸期の武家常寸)をめったやたらに振りまわすにはいいかもしれないが・・・。

■写真上:夏目坂の入り口にいまも残る、創業1678年(延宝6)の小倉屋。この真裏が江戸期には名主の夏目邸、夏目漱石の生家だった。右に見える坂が夏目坂。
■写真下:左は1929年(昭和4)の木村錦花『赤穂義士快挙録』、二代目・市川猿之助の中山安兵衛。(当時のブロマイド) 右は、小倉屋に残る「安兵衛の五合枡」。