下落合(旧・下落合1~4丁目)は、1945年(昭和20)4月10日と5月25日の空襲で焼けたエリアと、延焼をまぬがれたエリアとがまだら状に点在している。13日夜半の、「神田川・妙正寺川流域工業地帯」への空襲Click!では、川沿いにあった工場や住宅、目白文化村などが焼け、25日夜半の空襲Click!では池袋から目白通り周辺が爆撃された。いわゆる「山手空襲」は、東京大空襲Click!などの下町空襲に比べれば犠牲者の数こそ少なかったものの、地域によっては思ったほど爆撃効果が上がらなかったせいか、B29や戦闘爆撃機による反復爆撃を受けることになった。
 銀座や日本橋、京橋、本所、深川などに比べ、家々の敷地面積が大きく、屋敷森などの緑が多かったせいで、山手は類焼しにくい環境でもあったのだろう。戦後の焼け跡写真を見ると、緑地帯のある箇所で延焼が止まっているのが明らかにわかる。また、ターミナルの池袋駅や、陸軍施設が多かった高田馬場駅周辺に比べ、目白駅界隈は爆撃目標が少なかった事情もあるのかもしれない。だから、明治から昭和初期にかけて建てられた家屋が、下落合では焼失せずにそのまま残る確率が高くなった。佐伯祐三の『下落合風景』シリーズに描かれた家も現存している。
  
  
  
 わたしの隣家のK邸は、大正時代に建設された文化村の匂いがする瀟洒な文化住宅で、藤森照信教授の著作『落合における高級住宅街の成立』(1985年)でも紹介されているが、80年代にすっかりリフォームされてしまった。ずいぶん数こそ少なくなったけれど、下落合界隈を歩いていると、戦前からの建築をそこかしこで目にすることができる。外壁や窓枠をリニューアルして、一見古くは見えないお宅も含めると、それでも東京の他の地域に比べたら、まだまだ数多く残っているほうだ。
 記念的な有名人のお宅や文化的に貴重な屋敷ではなく、ごく一般的な住宅はプライバシーにも関わるので詳しくは紹介できない。でも、いまにも解体されて建て替えられたり、売られて低層マンションやアパートになりそうなところも多いので、いまのうちにアルバム形式で紹介しておきたい。
 隣家のそのまた隣りは、経年でかなり傷んではいたものの、まるで佐伯祐三のアトリエばり、白ペンキのモダンハウスY邸だったが、独り住まいのおばあさんが亡くなるとともに、こちらも5~6年前に解体されてしまった。オスガキどもに、よく花をくれたやさしいおばあさんだった。
  
  
  
 昔からの落ち着いた街並みや、その町ならではの風情を変えずに継承していくためには、若い子たちがそこで次々と育ち、地域とのつながりを大切にし、愛着をもってそこに住みつづける条件が不可欠だけれど、いまやマンションにでもしなければ若年層がなかなか集まらない・・・というジレンマもある。これらの家並みは、はたしていつまで残るものなのか、住民の少子化や高齢化とともに、下落合でもはなはだ心もとないテーマとなっている。

■写真上:明治期に建てられたK邸。屋根が少し反り返るような独特なデザインは、旧・前田子爵邸の移築と伝えられる、隣接する屋敷森にあった邸宅にうりふたつだ。K邸の音楽室には巨大なグランドピアノが設置されているが、少しデッド気味な空間にピアノの音色が、とても美しく響くだろう。
■写真中・下:下落合(旧・下落合地域含む)に今でも残る古い家並み。二度の空襲にも焼けず、いずれも大正から昭和初期にかけての美しい建築ばかりだ。