おもに昭和初期に、地元の方が撮影された下落合の古い写真を、安藤様のご好意で入手することができた。残念ながらすべてコピーで画像が不鮮明だけれど、目白通りで商店を経営されていた方が、つれづれ撮られたものだ。中でも、相馬子爵邸の正門だった黒門の写真(写真①)はたいへん貴重だ。いままで、何人もの方が“幻の黒門”写真を探してこられた。わたしも、15年以上探しつづけていたけれど、ついに発見できなかったものだ。このサイトでも以前、幻の黒門Click!として精細なスケッチをご紹介していた。
 そのほかの写真も、すべて貴重なものばかりだ。まず、1945年(昭和20)5月25日の空襲で焼失した、目白福音教会の宣教師館(メーヤー館)の北隣りに建っていた、英語学校がクッキリと撮影されている。中村彝が描いた『目白の冬』Click!の右側に見えている建物だ。中村彝が逝って5年後、1928年(昭和3)8月5日に、目白平和幼稚園の側から写されたものだ。(写真②)
★その後、目白通り沿いの建物疎開は1945年(昭和20)4月2日から5月17日までの、いずれかの時期に行われているのが判明Click!しており、また旧・英語学校は4月13日夜半の第1次山手空襲で焼失している。

 また、目白福音教会(目白平和幼稚園の入り口)自体も、同年の3月5日に撮影されている。(写真③) 3月にもかかわらず、東京には大雪が降ったようだ。目白通りに面したこの柵のところに、「目白平和幼稚園」と1文字ずつ書かれた大きな看板があったはずだが、この時期にはまだ設置されていないのか見あたらない。(写真右参照) さらに、やはり平和幼稚園側から1930年(昭和5)5月8日に撮られたメーヤー館Click!も写っている。(写真④)
③ 

 拡幅される前の、乗合自動車(バス)が走る目白通りの写真もめずらしい。(写真⑤⑥) 1930年(昭和5)7月23日に撮影されており、目白通りの路面は簡易舗装しかされておらず、乗合自動車が走る沿道は土ぼこりでたいへんだったろう。この2葉の写真に写っている片側の緑地、すなわち写真⑤の左側、写真⑥の右側の樹木は、約2,600坪もあった目白福音教会の広大な敷地に繁る“屋敷森”だ。つまり、写真⑤に写る乗合自動車は目白文化村Click!方面へ、写真⑥のバスは目白駅へClick!と向かっていることになる。

 もちろん、学習院高等寄宿舎「昭和寮」Click!も写されている。(写真⑦) 1929年(昭和4)1月4日の撮影だ。しかも、目白崖線(バッケ)上からではなく、めずらしくバッケ下から撮影されたもので、画角から想像すると大黒葡萄酒(甲斐産商店=現・メルシャンワイン)Click!の自宅兼工場があった、宮崎邸の東側あたりからではないかと思われる。

 さて、残る2枚の写真はやや難題だったが、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」と、1936年(昭和11)に陸軍航空隊によって撮影された空中写真とを照合したところ、なんとか撮影ポイントを特定することができた。
 1枚は、家々の屋根が連なる光景で、左手に少し大きなビル状の建築がチラリと見えている。(写真⑧) また、正面中央には銭湯とみられる煙突が見えるので、目白通りからそれほど離れていない住宅街の可能性が高い。他の目白福音教会周辺の写真とともに併せて考えると、左手に見えているモダニズム建築は「緑呉服店」の大店舗につづく建物、遠くに見える煙突は「ときわ湯」のものと思われる。空中写真にも、まったく同じ構図が見うけられ、「ときわ湯」からは排煙までが捉えられている。

 次に、「廣瀬歯科医院」と書かれた看板のある建物。(写真⑨) 1920年(大正9)8月に撮影されたもので、一連の写真ではもっとも古い。でも、「下落合事情明細図」から容易に発見できた。この地図を作成する際に協賛金を出したものか、地図下の広告にも同医院名が掲載されている。ところが、昭和初期にはこの医院はなくなってしまったようだ。のちに、この場所に建てられた商店が、「柿沼時計店」ではないかと思われる。1926年(大正15)現在に「廣瀬歯科医院」だったところが、4年後の1930年(昭和5)に撮影されたとき、すなわち写真⑤に写る「柿沼時計店」になっていたのではないか? なぜなら、西側に隣接する店舗が、「下落合事情明細図」(大正15年)でも写真⑤(昭和5)でも、「友田」屋となっているからだ。

 以上の写真を、1936年(昭和11)に撮影された空中写真と照合すると、以下のようになる。


 まだまだ下落合には、たくさんの貴重な写真が押入れの奥へ仕舞い込まれたまま眠っているのかもしれない。これら一連の写真が、氷山の一角だと考えるととても楽しい。

■写真①:相馬子爵邸の黒門。1936年(昭和11)2月3日に撮影されているので、陸軍航空隊によって測量用の空中写真が撮られた時期と一致する。この門をくぐると車寄せがあり、“天理型”の母屋をはじめ、“北斗七星”型の相馬邸Click!が御留山に拡がっていた。