写真展の備えつけノートに、「気になる神田川」が気になります・・・と書かれた方がいらっしゃいましたので、さっそく・・・。(^^;
 三代将軍・家光のころ、1629年(寛永6)に神田上水Click!は椿山下の関口に堰が築かれて間もなく、当時は椿山八幡と呼ばれていた水神社(すいじんしゃ)の宮司が夢をみた。「我水伯なり。この地にまつらば堰の守護神となり、村人はじめ江戸町人ことごとく安泰なり」と、水神様のお告げを聞いた宮司は、さっそく水神社を建てて神田上水の守り神とした。
 このエピソードに登場する椿山下の「堰」というのは、のちに「大洗堰」と呼ばれる、神田上水と江戸川の流れを分けるポイントにあった、江戸時代のダムのことだ。造られた当時は小規模なものだったようだが、時代がくだって江戸市街が大きく拡張・発展し、神田上水の需要が高まるに連れて、ダムのサイズも少しずつ大型化していった。
  このダムの役割は、神田上水から流れてきた水を堰き止め、江戸川橋から小日向、後楽の水戸徳川家の上屋敷から水道橋へとつづく上水道へ、より多くの水をスムーズに流入させることにあった。もちろん、当時は御留川と呼ばれ、川へ入ることも手や野菜を洗うことも、ましてやモノを棄てたり釣りをすることさえも禁じられていたので、万が一ゴミでも流れてきたときは、このダムにひっかけて上水道へ流れ込むのを防いでいたのだ。鶴屋南北の『四谷怪談』で、雑司ヶ谷四ッ家町Click!からお岩さんと小平を表裏に打ちつけた戸板を、神田上水へ棄てにくる場面Click!があるが、実際にそんなことをしたら大騒ぎになっていただろう。ましてや、砂町の「隠亡堀」へと戸板は流れていく設定だが、このダムがあったため必ずひっかかっていたに違いない。
 井の頭を水源とし、椿山下の大洗堰までの区間は、江戸初期から御留川として立入禁止とされ、天領(幕府直轄地)である村々への農業用水としての利用は許されたものの、随所に水番人を置いて川全体を厳しく取り締まっていた。ところが、この取り締りがやかましかったのは大洗堰までで、そこから下流域、つまり飯田橋(舩河原橋)までつづく江戸川と呼ばれた川筋では、釣りをしようが花見や舟遊びをしようが、はたまた泳ごうがまったく構いなしだった。当時は、舩河原橋から上流を江戸川、同橋から大川(隅田川)への出口の柳橋までを神田川と呼んでいた。
 


 明治になっても事情は同じで、江戸川の舟遊びや水泳は自由だったが、神田上水は相変わらず立入禁止の状態がつづき、1901年(明治34)に廃止されるまで上水道の水として使われた。だから、大洗堰は明治以降もそのままの姿をよくとどめていて、堰より下流では人々が川遊びや花見をする写真が多く残っているが、堰より上流では、明治初期の写真はほとんど残っていない。明治期まで残っていた大洗堰は、1786年(天明6)の大洪水で流されたあと、新たに造りなおされた姿のもので、取り壊される前の姿がかろうじて写真に撮影されている。それを見ると、大洗堰の下まで舟遊びをしにきた人々が写っているが、大洗堰の上には水道番らしき人物の姿が見える。
 
 飯田橋の舩河原橋近くに、揚場町という古い町名が残っている。「揚げ場」、つまり荷物の揚げ下ろしをする河岸(かし)のあった場所で、大川に面した柳橋から入り、神田川をさかのぼって来たやや大型の荷舟は、ここで一度陸揚げされ、より小型の舟で江戸川をさかのぼっていった。そして、大洗堰の少し下流、現在の江戸川橋あたりで再度陸揚げされ、それより上流にある高田村や戸塚村、落合村へは陸路で物資が運ばれていた。江戸時代、椿山の下にあった大洗堰は、神田川の水運の終点でもあったのだ。

■写真上:大洗堰跡付近の川筋。このあたりで神田上水と江戸川が分岐していた。右手は椿山。
■写真中上:切絵図は、金鱗堂・尾張屋清七版『礫川牛込小日向絵図』(1852年・嘉永5)より。右は、大洗堰のあったあたり、大滝橋より下流の江戸川橋方面への流れ。川底が、江戸期の倍以上に掘削されている。
■写真中下:上左は、明治末の水神社あたり。右手に見えるのは、細川邸の屋敷森(肥後藩下屋敷→細川邸→現・新江戸川公園)。上右は、大正末か昭和初期の神田上水(当時は神田川)で泳ぐ子供。下は、明治の初期とみられる大洗堰。対岸に写る、当時の椿山の様子がよくわかる。図絵は、長谷川雪旦『江戸名所図会』の「目白下大洗堰」(1830年代・天保年間)より。
■写真下:左は、現在の揚場町に面した外堀の様子。右は、戦後すぐのころの同所。