下落合(旧・下落合全域のこと)には、ふたつの大六天社(第六天社)がある。ひとつは、下落合4丁目(下落合735番地)の諏訪谷の突き当たり、もうひとつが六天坂の名称でも有名な、中落合1丁目(下落合1792番地)の南斜面だ。昔から、諏訪谷のほうは「大六天」、翠ヶ丘は「第六天」と表記されているが、どちらもまったく同じ神様。「第六天」と表記されるほうがポピュラーだけれど、これが史上最悪の祟り神なのだ。
 六天坂の大型マンション建設で、第六天の社域が少しひっかかったか、あるいは建設予定地が境内を侵食したかしたようだ。六天坂は、地元住民のみなさんがこしらえた「マンション建設反対!」の黄色いノボリが林立しているけれど、ポスターの中には「第六天の聖域を侵して、たたられるゾ」という趣旨のフレーズも見かけた。そう、第六天はとにかく祟りが怖い神様として有名で、社域の土地を切り崩して侵すなどもってのほかなのだ。織田信長が自称したことでも有名だけれど、「第六天魔王波旬」は西洋の概念でいうと「悪魔」そのものだ。
 もともと、六天坂の第六天は坂上にあったようで、その社域にあたるのが現在のマンション建設現場の界隈なのだろう。その後、坂上の祠(ほこら)は坂下に近い現在の位置へ移されている。いま、六天坂を下から見上げると、なんとも不恰好な巨大マンションが建設されていて、いかにも下落合(1965年まで下落合3丁目)らしい坂道の景観が台無しになっている。せっかく美しい坂道の風情が保たれてきたのに、六天坂の景観破壊は残念しごくだ。江戸期には東の見晴坂とともに、このあたりまでが落合蛍の名所として、(御城)下町の人々の遊山ポイントになっていた。
 
 もうひとつ、現在の下落合4丁目にある大六天のほうは、ほとんど元の位置を動いていない。諏訪谷の突き当たりにあったと思われる祠だが、いまも同じ位置に鎮座している。佐伯祐三が描いた『下落合風景』の大六天付近Click!を観ると、大正末までは鳥居がいまとは反対に北側を向いていたようだ。その後、社域の北側には地元消防団の小さな倉庫ができて、鳥居は南側へと移されている。
 親父が、よく謡(うたい)でうなっていた中に『第六天』(観世)があるけれど、なぜ下落合にふたつの第(大)六天が奉られるようになったのか、ふたつの近接した御霊神社(旧・下落合/葛ヶ谷)の存在とともに、ちょっと面白いテーマだ。祠や社(やしろ)が建立され、第(大)六天が封じこめられるということは、故事によっぽどの「祟り」がない限りありえない。なぜ、ことさら第(大)六天の名を借りてまで「祟り」を封じる必要があったのか、その不思議さと興味はつきないのだ。

 既存住民の意向をまったく無視したマンションの建設現場へ、「タ~タ~リじゃ~、落合村の第六天様がお怒りじゃ~。タ~タ~リじゃ~!」と白髪をふり乱し、腰を90度に折り曲げて杖をつきながら、もの凄い形相で・・・
  ♪目白が六羽と~まって 一羽の目白がいうことにゃ~
  ♪戦に破れた豊嶋氏の~ たどり着いたる落武者が~
 ・・・と、怪しい“下落合の手鞠歌”を唄いながら歩いて、マンション建設業者を震え上がらせるボランティアの方、いらっしゃいませんか?(爆!)

■写真上:坂の正面に、巨大なマンション建設が進む六天坂。ひどい景観だ。
■写真下:左は、下落合の諏訪谷の突き当たりにある大六天。右は、六天坂の下にある第六天。
●地図:大正末期の「下落合及長崎一部案内」に描かれた、諏訪谷の大六天。大六天の左側には、諏訪谷の谷底にあった移動前の“洗い場”が描かれていて、まだ古い位置のままだ。