佐伯祐三の『下落合風景』で、看板の文字がはっきり描かれている作品はめずらしい。この看板も、「原」Click!で描かれたのと同様に、当時はどこでも見られた△看板だ。倒れかかっている左の看板には、いちばん上に「〒」マークのようなものが描かれ、つづいて「下落合○○○」と書かれているが、下の文字は曖昧ではっきり読めない。右の看板の文字は、クッキリと描かれて「富永醫院」とすぐに判読できる。この医院名の看板で、絵の風景の場所がすぐに特定できた。
 「富永醫院」の医師・富永哲夫は、1925年(大正14)に東京帝国大学医科大学を卒業し、落合町葛ヶ谷24番地の1に住んで、翌年の1926年(大正15)には早々に医院を開業していたようだ。現在の、西落合1丁目5番地の角地に近いあたりになる。大正期には、「富永醫院」にほぼ隣接して、葛ヶ谷地区では唯一の銭湯があったところ。残念ながら、この銭湯の名前がいまだわからない。現存する銭湯に「栄湯」と「鶴乃湯」の2軒があるけれど、大正期、葛ヶ谷24番地にあったのは、このどちらかの前身となる銭湯だろうか?
 絵の「富永醫院」看板がある右手には、正面奧へとつづく道路から北へと折れる道が入りこんでおり、その道に面して富永家の自宅兼医院は建っていた。名前の不明な銭湯は、そのさらに北側に位置していて、おそらく入口は目白通りのほうを向いていたのではないかと思われる。「富永醫院」の前の道をさらに北へと歩いていくと、ほどなく目白通りへと抜けられた。北上するこの道が、落合町下落合と落合町葛ヶ谷(西落合)とを、東西に分ける境界線だった。
 
 看板のある角を北へと曲がった、少し内側の向かって右側(東側)には当時、消防署の分署が設置されていたのだろう、戦前まで大きな火の見櫓が建っていた。現在は、消防署跡の角地には交番と、その横に小さな児童遊園とが設置されている。「道」Click!の画面左手にも、露出した赤土の切れこみとして、この曲がり角の一部が描かれていた。ただし、火の見櫓は少し内側(北側)に建っていたので、「道」では左の画角外ということになる。
 ちょうど、第二文化村の北外れで、よほど佐伯はこの道筋に展開する風景に惹かれたものか、それぞれ直近のポイントにイーゼルをすえて、一連の「原」と「道」とをつづけて描いている。(まだ他にも、近くを描いた作品がありそうだ) そう、この風景は、「道」のややカーブしたダラダラ坂を下りきった、「道」とは180度反対側の方角を向いて描いた作品。下落合と葛ヶ谷とを南北に分ける境界の、西へと向かう道路だ。
 この風景の背後が、「道」で描かれた右カーブのダラダラ坂。また、この道を40~50mほど先へ進むと、「原」で描かれた広い原っぱが左手に出現し、視界が急にひらける。背後の「道」のダラダラ坂から引きつづき、描かれた道もほんの少しだが下り坂となっている。目白通りから入ってきたのか、あるいは目白通りへ向かっているのか、中央に3人の人物が描かれているが、モノクロなのではっきりとした風体がわからない。この道を目白通りへと抜け、道路を渡った長崎町の側から描いた『下落合風景』Click!の画像も現存している。
 
 「富永醫院」は、大正末から昭和初期までの短い期間だけ開業していたようで、ほんの数年で廃業してしまったらしい。葛ヶ谷はまだ人家も少なく、思ったよりも患者数が集まらなかったのか、あるいは富永自身が医学の勉強をもっと掘り下げたくなったせいなのかもしれない。『落合町誌』が出版される1932年(昭和7)には、医師・富永哲夫については記載があるものの、すでに町内開業医院の紹介ページには、「富永醫院」はリストアップされていない。『町誌』が出版されるころ、富永は「細菌衛生学」のテーマで医学博士の学位を取得して、東京市衛生試験所に勤務していた。

 余談だけれど、葛ヶ谷24番地の2、つまり「富永醫院」の隣りには、富永五郎という人物が住んでいた。肩書きが「工学士日本航空輸送会社員」となっており、おそらく富永医師の肉親か親戚だろう。でも、不思議なことに、その紹介本文が丸ごと削除されてホワイトスペースとなっている。『落合町誌』では、このような“穴”の空いた箇所は、唯一ここだけだ。ゲラ刷りを読んだ当人が気に入らず、印刷直前にダメ出しをしたのだろうか?
 肩書きや名前はちゃんと掲載されているので、本文になにか急な不都合でも生じたのだろう。書き直しや編集のやり直しができないほど、切羽詰まったスケジュール段階での全文削除だったと思われる。富永五郎は、のちに東京オリンピックが開かれた1964年、東亜国内航空の社長に就任することになる。
 では、この『下落合風景』を描画ポイントClick!に加えてみよう。

■写真上:左は、佐伯祐三『下落合風景』(1926年・大正15)。右は、現在の同所。
■写真中:左は、1936年(昭和11)に撮影された描画ポイント周辺の拡大写真。右は、より引いた空中写真。第二文化村の北側、下落合と葛ヶ谷との境界における佐伯の足取りが(なぜ、町外ればかりを描くのが好きなのかはわからないけれど)、ぼんやりと透けて見える。
■写真下:左は、1947年(昭和22)の空中写真。空襲による第二文化村の火災が、この周辺にまで及んでいたのがわかる。右は、1932年(昭和7)現在の富永哲夫医師。
●地図:1929年(昭和4)の「落合町市街図」に見る、下落合と葛ヶ谷の境界あたり。