佐伯祐三の描画スピードは、とてつもなく速かったというのが定説となっている。 『下落合風景』Click!シリーズに関する彼の制作メモClick!を見ても、15号あるいは20号の作品を1日に2枚仕上げることも決してめずらしくなかった。でも、はたしてこの制作スピードは事実だろうか? 佐伯の美術学校時代からの親友である洋画家・山田新一は、著書の『素顔の佐伯祐三』(中央公論美術出版)の中で、彼に直接質問したことに触れている。
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 あまりに彼がすさまじく早く絵を仕上げるので、僕もある時、ひやかし半分に
 「おまえ、二十号をどのくらいで描くんや」
 と訊いたことがあったが、この時は
 「そうやな四十分ぐらいやろな」
 と、こともなげに言ったので、さもありなんと感じた次第であった。
                             (山田新一『素顔の佐伯祐三』1980年より)
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 この点は、佐伯の『下落合風景』シリーズを模倣したと思われる、同じ1930年協会の洋画家・笠原吉太郎Click!『下落合風景』Click!の制作姿勢にもあらわれている。笠原は毎日、2枚のキャンバスを表合わせにして自転車で写生に出かけ、帰ってくると2枚とも作品が仕上がっていたと、のちに遺族が証言している。まさに、佐伯の制作スタイルそのものだ。
 でも、佐伯はほんとうにその場で作品を“完成”させていたのだろうか? いや、佐伯がウソをついているという意味ではない。絵の具が乾かずに、描画の現場では描きこめなかった部分を、持ち帰ったアトリエでのちに筆を入れて完成させなかっただろうか?・・・ということだ。『下落合風景』を例にとれば、佐伯は確かに制作メモのとおりに下落合のあちこちを逍遥し、タイトル通りの作品を描くために、それぞれの描画ポイントに立ったのだろう。だが、絵の具が乾かないまま持ち帰った作品が、すでに完成していたとは限らない。つまり、制作メモの月日の当日、そのタイトルの絵が最終的に仕上げられていたと見るのは、ちょっと早計のような気がするのだ。
 それは、佐伯の作品のそこここに、あとから筆を入れたと思われる痕跡が見られる、つまり下の絵の具がよく乾いてから、その表面に作業をしたとみられる痕跡が、多々残っているということからも想像できるようなのだ。佐伯は、絵の具を厚塗りする表現がことに多いので、早乾きの絵の具を用いたとしても、乾くまでにはしばらく時間を要しただろう。その日のうちに、「ハイ、でけたで」という作品ばかりではなかったはずだ。
 
 小説家・芹沢光治良は、パリのアトリエで制作する佐伯の姿を次のように証言している。
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 (前略)佐伯君はその日昼間外でかいて来たものを画架において、加筆しはじめました。アトリエは部屋ではなくて、街であると佐伯君は言って、昼はきまって外で描いて来るようでした。あの頃は三時にはもう日がくれるので、やむなく帰って来たのでしょうが、外で描いた絵は、必ず画架において眺めなければいいのかわるいのか分らないとも、画架において加筆しなければダブロー(ママ)にならないとも、言っていました。そして、加筆する時に、そばに誰がいようとも、どんなにさわごうとも、さまたげにならないようでした。
      (『近代画家研究資料 佐伯祐三Ⅱ』所収/芹沢光治良「或る頃の佐伯君」1950年より)
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 『下落合風景』の数々にしても、頒布画会用に制作を急いでいたとはいえ、制作メモのスピードで各作品が確実に“完成”していったとは、必ずしも言えないのではないだろうか? 佐伯の『下落合風景』にしてはたいへんめずらしく、未完成に終わったとみられる作品「くの字カーブの道」Click!は、ひょっとすると描画位置の現場で未完だったのではなく、アトリエで最後の仕上げの途中、なんらかの理由により制作を放棄したのではないか・・・、そんな気さえする。
 佐伯祐三の作品には、習作あるいは未完成の作品がきわめて少ない。それは従来、佐伯は徹底した現場主義で、描画場所ですでに作品を“完成”させていたからだ、と説明されてきた。また、驚異的な描画スピードに関しては、絵の具の乗りがよくて乾きも早い、手づくりの独自キャンバスを用いていたからだ、とも言われている。でも、それだけでは説明がつかないなにかが、そこには隠れているような気がする。描きかけの作品、あるいは習作レベルの作品を、あとからアトリエで手を入れて“完成”させたケースも、多々あるのではないだろうか? 中には、思い通りに仕上げられないまま、従来の佐伯タッチからすると“未完”のままのような作品が、人手に渡ることもあったかもしれない。『下落合風景』の「くの字カーブの道」を観ながら、そんなことをそこはか想像してしまうのだ。
 絵の具がほどよく乾いた上から、アトリエで佐伯祐三自身が加筆していたのか、それとも、制作からかなりの時間を経過して手を入れていたのは佐伯以外の人物なのか・・・という、もうひとつ新たなテーマが浮上するのだけれど、それはまた別の物語。

■写真上:左は、佐伯祐三『扉』(1928年・昭和3)。右は2006年夏、パリの27,rue Campagne Premiere14区にある「扉」。27番地の表示ともども、パリのあまりの変わらなさに愕然とする。下落合があまりに変わりすぎているのか・・・。
■写真下:左は、山田新一あての手紙(1920年・大正9)。「『題』は右のままにて結構、サインは君がして下さい すみませんけれど小サク『祐』と云ふ字をかいて下さい」と、もうメチャクチャなことを書いている。佐伯の自筆サインではないので、のちに佐伯の作品なのに贋作とされてしまった絵はなかっただろうか? 右は、1921年(大正10)に山田と箱根へ写生旅行に出かけたときのスナップ。