1928年(昭和3)3月15日、上落合の「三角の家」Click!にいた村山知義はパニックに陥っていた。周囲の共産党活動家が、治安維持法違反の容疑で次々と逮捕され、いつ特高が踏みこんでくるか村山もおそらく気が気でなかったに違いない。
 3月17日になると、友人の林房雄から連絡が入り、危険なので東京から離れようということになり、ふたりで円タク(1円タクシー)を雇って延々と伊豆まで逃げのびた。逃げた先は当時、熱海にあった川端康成の家だ。2年前に『伊豆の踊子』を発表していた川端は、一高帝大を通じての村山の先輩にあたり、文芸誌『文学界』の執筆仲間でもあった。「3・15事件」の間、村山知義はずっと川端家の温泉に浸かってすごした。
 やがて、その年の秋になると、『戦旗』編集部に北海道の小樽に住む青年から、『一九二八年三月十五日』という小説が送られてきた。作品は同年の『戦旗』11月号・12月号につづけて掲載されたが、即日発禁処分を受けている。この小林多喜二という文学青年は、その後、下落合駅へ降り立って頻繁に上落合のナップ本部や村山知義のアトリエを訪れるようになる。小林は、ことのほか村山家Click!とは親しくなったようで、「三角の家」へやってくると幼い村山亜土をしじゅう膝に抱いてすごしていたようだ。
 村山知義は『演劇的自叙伝』の中で、上落合の「三角の家」に触れて次のように書いている。
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 (前略)ここでマヴォの運動が起こり、プロレタリア演劇運動が経過し、人形劇団プークも、その初期にはここに根を置いていた。
 この小さな家の食堂の作りつけの食卓で、妻の籌子の童話の大部分は書かれた。また、この狭い客間の窮屈な椅子に、小林多喜二も蔵原惟人も山田清三郎も杉本良吉も柳瀬正夢もその他多ぜいのプロレタリア文芸運動の闘士たちがひっきりなしに訪れて、愉快に話し合い、時のたつのを忘れたものだった。  (村山和義『演劇的自叙伝・第2巻』1971年より)
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 また、村山亜土の『母と歩くとき』には、小林多喜二についてこんな想い出が語られている。
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 (前略)そして、多喜二は、子供の私にとってもまことに忘れがたい人であった。痩せて小柄、色白で頬が赤く、むしろ女性的な感じであったが、夏の日、我が家での作家同盟の会議に、彼は浴衣にカンカン帽という姿で、肩を振り振り、下駄音高くあらわれた。そして、私を見つけると、「ケケケ」と笑い声をたてながらすばやくつかまえて、アグラの中に抱き込んで、誰よりも盛んに発言し、時々「異議なし!」などと叫んだりした。頭の上のあのキンキンと甲高い声は、私の耳になまなましく残っているし、突き出した喉仏のコリコリと動く、くすぐったいような感覚を、私の後頭部がはっきりおぼえている。  (村山亜土『母と歩くとき』2001年より)
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 村山が未決のまま、獄中ですごしていた1933年(昭和8)のある日、村山籌子が亜土を連れて豊多摩刑務所(のちの中野刑務所)へ面会にやってくる。当たりさわりのない会話の最中に、息子の亜土が父親へキャラメルを渡そうとする。刑務官が怒声をあげて静止する中、村山籌子はドサクサにまぎれてバックの裏側を、夫が見える位置にかざした。そこには、チョークで書かれたカタカナの文字が並んでいた。そのときの様子を、同じく『母と歩くとき』から引用してみよう。
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 (前略)看守が立ち上がり、「だめだ、だめだ!」と手を振った。私が立ちすくむと、母が私をうしろ抱きにして、ハンドバッグを私の胸に押しあてて、じっと静止した。そのイギリス製のハンドバッグは、母が自由学園の学生の頃からのもので、やわらかい黒皮、縦二十センチ、横三十センチほどであった。それを見て、父の目がカッと大きくなり、宙を泳ぎ、暗く沈んだ。母はわざと、本や、下着や、弁当の差し入れについて早口に話していたが、ハンドバッグには白墨でこう書いてあったという。
 「タキジ コロサレタ」
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 1933年(昭和8)2月20日、特高により潜伏活動先の赤坂で逮捕され築地警察署へ連行された小林は、身体が腫れあがり皮膚呼吸ができなくなるほどの拷問を受け、その日のうちに虐殺された。妻のバッグに書かれた「タキジ コロサレタ」を見て、村山知義は愕然としただろう。
 開通して間もない西武電気鉄道に乗り、ほどなく西へと移動した真新しい下落合駅Click!に降り立った小林多喜二は、踏み切りを渡ると上落合の月見岡八幡(現・八幡公園)をめじるしに、村山アトリエやナップ本部へと、下駄を高鳴らしながら頻繁に通ってきた。帰るときも、下落合駅を利用したに違いない。共産党が非合法化され1932年(昭和7)春から地下へと潜る前、下落合駅のプラットホームに立った浴衣にカンカン帽という妙ないでたちの彼は、目白崖線が迫る灯りもまばらな東京郊外の風景を見わたしながら、なにを想っていたのだろう。
 それほど間をおかず、プラットホームにたたずむ彼の背後には、寄り添うようにふたりの特高の影がチラつきはじめただろう。村山亜土の顔を見ては「ケケケ」と笑う、小林多喜二の下落合通いは長くはつづかなかった。

■写真上:下落合駅のプラットホームから、北東の目白崖線を見る。小林多喜二の見た風景とは一変しているだろうが、緑の多い丘陵地形にはどこか面影が残っているかもしれない。
■写真下:左は、小林多喜二の記念切手(2000年発行)。警察に追いまわされていた小林は、70年後に、まさか自分が日本郵便の80円切手になるとは思ってもみなかっただろう。右は、村山一家のアトリエ前での記念写真。村山知義(左)、村山籌子(右)、そして村山亜土(中央下)。