二二六事件のとき、首相官邸を脱出した岡田首相は下落合まで逃れてきて、政治家の佐々木久二邸Click!にかくまわれていた。旧・鎌倉道の中ノ道に面した、当時はめずらしい室内プールのあった佐々木邸の隣りが、これまた大きな敷地の外山秋作邸だ。いまは、ほとんど全敷地が十三間通り(新目白通り)の下になってしまっている。里見勝蔵や佐伯祐三が結成した1930年協会に、スポークスマンあるいは論客的な位置で参加した外山卯三郎の実家で、学生時代からの彼のアトリエもここに建っていた。のちに、彼は画家にはならず、今日的な言い方をすれば美術評論家、あるいは美術史家としての仕事をした。(詩関連の文学の仕事もしている) 佐伯祐三のことを調べていると、特に1930年協会結成のあたりから、必ず外山の書いた資料にぶつかることになる。
 佐伯が第2次渡仏から死去するまで描いた、パリにおけるほとんどの作品群は、彼の死後、すべてこの外山卯三郎のアトリエに一度集められることになる。絵をほとんど描かなかった外山は、アトリエを倉庫がわりに提供したのかもしれない。パリから下落合への送り先は、現在の佐伯アトリエ(下落合661番地)ではなく、外山秋作邸(下落合1146番地)の外山卯三郎あてだった。そのとき、外山のアトリエを覗いたとしたら、佐伯晩年のほとんどの作品画布が丸められて揃っていたわけだから、さぞや壮観だったことだろう。作品群がとどいたのが秋から暮れにかけてだったらしいことを考えると、このあたりで蛇行を繰り返していた当時の妙正寺川が、大雨で氾濫しなくてほんとうによかった。

 佐伯は二度めのパリへと向かうとき、かなり身辺の整理をしていった。絵道具の多くを、まるで形見分けでもするように友人知人へ配っている。アトリエで愛用の簡易イーゼルも、近くの諏訪谷に住んでいた曾宮一念Click!へ上げてしまった。※ アトリエの家具調度類も、ずいぶん整理したのかもしれない。それだけ、佐伯にとって二度めの渡仏は、あとあとのことを考えない背水の陣のような気がまえだったのだろう。そして、酒井億尋の敷地の上に建っていた佐伯アトリエは、渡仏後にはすでに別の画家が「留守番」という名目で暮らしていた。のちに新制作派協会(1936年・昭和11)を結成する、洋画家の鈴木誠だ。だから、佐伯の死亡時は厳密に言えば、佐伯アトリエではなくすでに鈴木アトリエとなっていた。1927~28年(昭和2~3)のパリにおける佐伯作品が、現在の佐伯アトリエではなく外山卯三郎のアトリエへと送られたのは、このようないきさつからだった。
※その後、曾宮一念の証言から、簡易イーゼルは佐伯が第1次渡仏をする際に曾宮へ贈っており、ふたりでイーゼルを持ちながら佐伯アトリエから曾宮アトリエClick!まで、えっちらおっちら運んでいることが判明している。
 ところで、外山卯三郎の書く文章は、いつもわかりにくく難解で悩みのタネなのだ。1930年協会の仲間でいうなら、彼は大学出たてのホヤホヤ、いちばん若いメンバーだったわけだから、年長の仲間たちを表現するのに、ことさら気負いたったところがあったのかもしれない。それにしても・・・と、つい思ってしまう。たとえば、1928年(昭和3)の『中央美術』2月号で、外山が里見勝蔵のことを書くとこんなことになってしまうのだ。
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 私は里見氏が唯だ単なる画家であるとは考へない。里見氏の見てゐる世界は絵のみではない。彼は文学を愛してゐる、然し唯だ文学を愛することをしない、彼は常に文学に自分の姿を見出さうとする。それ故に彼の要求する文学は又、彼の絵の如くあざみの花でなければならない。即ちゴヴゴリイであり、ドストエフスキーであり、又ストリンドベルヒでなければならない。(中略)
 此の様に彼は凡ての部門の芸術を潜在的に有してゐる日本のジアン・コクトウであるかも知れない。然し彼の絵はその明白な姿をもつて他の趣味の頭を圧倒せざるを得ない。
                                 (外山卯三郎「曠野に咲く薊の花」より)
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 ・・・と里見勝蔵は、なぜか「野に咲くアザミの花」にされてしまう。はっきりいって、いったいなにが言いたいのかサッパリわからないのだ。ゴーゴリーやドストエフスキー、ストリンドベルヒたちが、「アザミの花」であったことも初めて知ったしだい。
 
 この難解さは、年齢とともに少なくなってくるけれど、基本的に彼の書くものは難しいことに変わりはない。たとえば、1929年(昭和4)の『1930年叢書No.1』(1930年協会)には、佐伯祐三についてこんな記述がある。
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 ギリシアの哲学者プラトンは言つている。「一切のものは皆な己が本来の面目に到らんと躍進する、されどそれより劣れり」と。まことに数多の人間は凡て「自我」の完成に躍進してこそ導くものである、偉大なる芸術家の凡ては、此の最も高き「自我」の表現に到達した人間であると言ふことが出来る、我が佐伯祐三も亦、此の己が本来の面目にまで吼々として躍進しつゞけた真剣な画家であることを否めない。然し彼佐伯祐三の三十年の躍進の跡が、彼本来の面目を完成し得たかと言ふことに就いて、私達は唯々彼の夭折を悲しまずにはゐられない。(外山卯三郎「佐伯祐三の芸術」より)
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 佐伯の作品を評するのに、プラトンから説き起こすのが適切かどうかは知らないが、こんな調子の文章がエンエンとつづく。佐伯の資料を片っぱしから当たっていて、外山卯三郎の資料に行き当たると、わたしは「また出合っちゃったか」・・・と、少々気が重くなるしだいなのだ。
 そして、もうひとり、気が重くなりすぎてアタマが真っ白になる資料に、佐伯に関連する洋画家・長谷川利行の文章がある。こちらは、できれば見なかったことにして避けて通りたい。

■写真上:現在の外山秋作邸あたりで、完全に十三間道路(新目白通り)下になってしまっている。ここに、第2次渡仏時に描かれた、佐伯晩年のほとんど全作品が集められた。
●地図:1926年(大正15)の「下落合事情明細図」より。
■写真中:左は、1926年(大正15)の『みづゑ』7月号。第1次渡仏から帰国したばかりの佐伯も、「巴里の生活」というエッセイを寄せている。右は、同誌に掲載された1930年協会展の広告。
■写真下:左は、1930年協会に参加する多くのメンバーたちが執筆した、1928年(昭和3)の『中央美術』2月号。右は、1930年協会が出版した『1930年叢書No.1』で、佐伯の特集号となっている。同誌の発売元が東京詩学協会となっており、詩もたしなんだ外山卯三郎の関連がうかがえる。