早稲田で貧乏な学生時代をすごした西條八十は、卒業後、老母と弟妹を抱えて困窮のどん底にいた。神田にあった東京堂のあたりで小さな出版店をやっていたが、カンコ鳥が鳴いていた。ある日、目白から鼻の下にチョビ髭を生やした小男が訪ねてきた。その男は、刊行を始めたばかりの『赤い鳥』という子供向けの雑誌に、詩を提供してほしいと無名の詩人へ依頼した。目白に住む鈴木三重吉Click!だった。
 鈴木は、すでに文芸誌『新小説』などへ作品を発表しており、また夏目漱石の弟子としても広く名前が知られていた。このとき、鈴木は西條に「芸術的な唱歌」を作ってくれと依頼している。「小学生童謡」でも「文部省唱歌」でもなく、鈴木は『赤い鳥』へ掲載する予定の作品を「芸術的唱歌」と称した。このころから、すでに作曲者の近衛秀麿Click!と成田為三の意見対立を、ある程度予見していたものか。彼の唱歌に対する表現は、近衛秀麿的な発想がベースにあるように思える。
 のちに、作詩を手に赤い鳥社へ通うようになる西條だが、鈴木三重吉と会うことはほとんどなかったという。原稿をとどけに寄っても、鈴木はほとんど不在だった。きっと、広告取りClick!に忙しかったのかもしれない。そのかわり毎回、作品に対する鈴木の批評が西條のもとに手紙でとどいた。洋罫紙にびっしり細々と書かれており、その詳細さに彼は舌を巻いたようだ。こういうところにも、かなり神経質だった鈴木三重吉の性格が感じ取れる。
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 こうして永い苦慮のあげく、ぼくはやっと「薔薇」や「かなりあ」のような歌を書き上げて赤い鳥社に届けに行った。最初の赤い鳥社はどうも三重吉の自宅であったような気がする。目白駅を出て、線路沿いの崖みちを一丁ほど行った左手の小さな平家だった。その後赤い鳥社はなんでも築地へんの汁粉屋の二階に移った。のれんをくぐって、左手の階段をあがるのだが、のれんをくぐるとたんに「いらっしゃい」と汁粉屋の店員に声をかけられるのが、若いぼくはとても苦手だった。
                                  (西條八十「三重吉さんの来訪」より)
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 この西條の文章では、赤い鳥社が創立時には山手線の線路沿いにあったことが記録されている。現在の目白庭園の斜向かいの、プレートのある位置ではない。「線路沿いの崖みちを一丁ほど行った左手の小さな平家」、つまりF.L.ライトの小路を100mほど北へと歩くと、道の左側に赤い鳥社=鈴木三重吉の自宅平屋があったことがわかる。なんと、三春堂さんのほんの少し先だ。西條八十が赤い鳥社を訪ねたのは、『赤い鳥』が創刊されて間もないころであり、日本橋へ移転する前、当初の位置に社屋があったころだ。ライトの小路が赤い鳥の発祥地だったことは、わたしもうっかりしていた。このことは、目白庭園前のプレートにも実は記載されている。プレートの文章を、ちゃんと読まないわたしが勘違いをしていただけだ。
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 (三重吉の手紙の)中にはぼくの童謡が作家仲間に評判がいいので、白秋が焼餅をやいて困る。そしておれにだけなぜ子供向きの童謡を書かせ、西條には大人むきのそれを書かせるのか、としきりに怒して来ているなどという文句もあった。(同上)
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 どうやら鈴木は意図的に、北原白秋には小学生を対象とした児童向けの童謡を、西條八十には芸術的な唱歌を注文していたようだ。北原は、「なんでオレだけが、ガキンチョ向けの歌ばかりなんだよ!」と、鈴木へねじ込んだのだろう。
 
 その後、西條八十は作詩家として成功する。彼が活躍した昭和初期のころ、いまでは都心と呼ばれるようになった新宿界隈は、ようやく繁華街としての姿を整えつつあった。生まれ故郷でもあり、学生時代をすごした街のせいか、西條は新宿に咲いたモダニズムの“花”をこう詠った。
  シネマ見ましょうか お茶のみましょうか いっそ小田急で 逃げましょうか
  変る新宿 あの武蔵野の 月もデパートの 屋根に出る
                                (西條八十「東京行進曲」より)
 伊勢丹デパートで買い物をしたあと、芸術家が集う中村屋喫茶部でコーヒーを飲み、彼女が「いいわよ」とでも言えば、小田急でひと息に箱根へ遊びに出かける・・・。学生時代の彼には想像もつかなかった“夢の花”を、後年、東京行進曲」に織り込んでみたのだろう。

■写真上:ライトの小路を100mほど入ったところ、西條八十が1918年(大正7)に設立されたばかりの赤い鳥社を訪ねたあたり。現在の記念プレート位置から、250mほど目白駅寄りだ。
■写真中:左は、1936年(昭和11)のライトの小路上空。右は、1926年(大正15)「高田町北部住宅明細図」。大正末の当時、赤い鳥社は現在の目白の森公園前にあった。地図には洋画家・安井曾太郎の名前が見えるが、彼はこのあと下落合の相馬邸(御留山)の東側にアトリエを建てている。
■写真下:左は、目白庭園に近い「赤い鳥社」の記念プレート。右は、晩年の西條八十。