下落合の御留山(おとめやま公園)の山麓に、藤稲荷(藤森稲荷/別名:東山稲荷)と呼ばれる社がある。月岑/雪旦の『江戸名所図会』にも、その広大な境内がいくつかの社殿とともに紹介されている。でも、戦前は荒れるにまかせていたらしい社を、1956年(昭和31)に現在地へと移転し、社殿や鳥居も一新して現在にいたっている。江戸期から境内は縮小しつづけ、移転前は現在の社のやや南寄り、神田川へより近い位置に藤稲荷は存在していた。まさに、下落合でも湧水や地下水脈がもっとも豊かだったポイントに、藤稲荷は鎮座していたことになる。いまでも、おとめ山公園の湧水源は枯れることがない。奉納されている神爪には、1818年(文化15)の年記とともに太田南畝(蜀山人)の名前も刻まれている。
 社の由来は、源経基が京・東山の稲荷を勧請して、東国の源氏一族の氏神として奉ったといわれているが、わたしはさらに縁起は古いのではないかと想像している。源経基伝承は、鎌倉時代に作られた付会の匂いもするが、なによりも社名に「藤」という字が付加されているところに、由来の古さと大きなテーマ性を感じるのだ。このような地形のポイントに、「藤」という文字が用いられた地名や社が存在するとき、それは地下水脈/湧水源の発見や鉱脈の探査をなりわいとした、古代のプロフェッショナル集団=「藤」一族をすぐにも想起する。
 名前に「藤」が付く一族が、水脈/鉱脈の探索グループだったことは、柳田民俗学でも古くから採集されてきたテーマだ。現在では、この柳田の成果をベースに、日本各地で「藤」の字をめぐる地名や社名、人名が指摘され、研究の範囲が大きく拡がっている。歴史に見られる「藤太」「藤次」「藤三」「藤四」「藤五」といった名前は、もともと井戸掘り技術者=湧水脈の探査が得意な技能者に付けられていたものだが、時代を経るにしたがって鉱脈探査の技術者との関わりも深くなっていく。谷川健一は『鍛冶屋の母』(2005年)の中で、「藤」と湧水脈探索の深い関連に触れ、柳田時代よりも深化した「藤」研究について、以下のようにまとめている。
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 「藤」というのは水の「淵」と同語の分化で、水の精霊を象徴する語であることは、折口信夫や高崎正秀氏によって論じられている。(中略) 井戸掘のような水利の業は、地質や地下の水脈の卜定透視(ぼくていとうし)といった特殊な技術を要し、しかもそうした技術そのものがたんなる技術ではなく、原始信仰上きわめて呪術宗教的意義を有するもので、農民や他の一般の者の関与することを許されない神聖な技術であったと乗岡(憲正)氏は言う。(中略) 水脈を探しあてて井戸掘をする者に「藤」の名がつけられ、あるいは鍛冶漂白の徒や、鉱脈を探して歩く人たちにも、炭焼藤五郎とか、炭焼藤太とか「藤」の字がつけられるというのは、両者に密接な関連があるからであり、さらに俵藤太秀郷がどうして藤太という名を持っているかも、彼は瀬田の唐橋に住む竜神の依頼で、鉱山や鉱脈に縁由のある百足を退治したという物語を念頭におくと、よく理解されるのである。
                                            (同書「平将門」より)
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 平安期より以前から、「藤」という文字に象徴される湧水技術(呪術)の一族が、探鉱技術者との間に浅からぬ因縁(連携)があったことが指摘されている。そして、探鉱技術(呪術)をなりわいとする探査グループ(鉱山の穴掘りの形状からムカデ=百足衆と表現されることの多い一族)には、全国に共通する伝承として「弥三郎」「弥五郎」伝説と、そのバリエーションと思われるフォークロアが多数存在していることも、民俗学の浸透とともに明らかになってきた。
 これらの伝説には、たいへん興味深いテーマが付随している。「弥五郎(弥三郎)」は全身が鉄でおおわれた不死身の大人(大男)であり、世間からはばかられる乱暴者だった・・・というのが、今日まで伝承された共通点だ。ただし、不死身の「鉄人」ではあるものの、たった1箇所の“泣き所”、つまり鉄で覆われていない生身肌の部分が露出している。そこを狙って、「弥五郎」は“退治”されてしまうことになる。この説話、まさに「将門記」や「義経記」の“弁慶”などのプロットとよく似ていることに気づく。乱暴者の「弥五郎」に象徴されるタタラ/鍛冶グループを、「藤」に象徴される湧水/水脈グループが制圧するというのは、いったいどのような事実関係から抽象化された話なのか?
 タタラによる製鉄には、大量の材木の伐り出しや、川底の土砂をすくって流す砂鉄採集のカンナ流しClick!が不可欠だ。つまり、田畑に水を引き作物を育てる農民たちにとっては、里山を荒らし水を汚す迷惑集団として認識されていやしなかったか? また、広い田畑を耕すには、豊富な水資源の発見が不可欠な要素でもあったろう。さらに、面白いことに「弥五郎」伝説はのちに、「五郎」が「御霊」へと転化していくという伝承も残っていることが指摘されている。
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 ではなぜ、その鉄人に弥三郎の名前がつけられたかといえば、一つは佐竹氏の主張するように、史実の柏原弥三郎の名が影を落としているとみることができる。しかし、他の解釈もできないわけではない。弥三郎とか弥五郎という名前は、信仰に関連のある名前と解せられるからである。大人弥五郎の話は、鹿児島県や島根県、愛知県などに今日でも残っている。この弥五郎の五郎は御霊だと説明する人たちもいる。弥三郎もまた弥五郎と同一系列の人物みなすことができる。
                                        (同書「伊吹の弥三郎」より)
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 「御霊」と名の付いた聖域が、下落合にも2箇所Click!、それも非常に近接して丘上に存在しているのもたいへん興味深い。中井御霊神社(中井2丁目)と葛ヶ谷御霊神社(西落合2丁目)だ。「五郎(御霊)」と「藤」とが、まさにセットになってきれいに残存している土地柄、それが神田川や妙正寺川が流れる、下落合の目白崖線沿いということになる。
 おそらく偶然かもしれないが、さらに興味深いことに藤稲荷のある御留山(現・おとめ山公園)には、戦前まで上空から北斗七星に見える将門相馬家の大きな邸宅Click!が建っていた。つまり皮肉にも、もっとも有名な「鉄人(弥五郎)」伝承のひとつを抱える一族が、「藤」伝承の残滓と思われる、将門を討った“俵藤太”とも結びつきの深い聖域を、期せずして丘上から睥睨していたことになるのだ。藤稲荷を勧請したと伝えられる源経基という人物は、まさに将門伝説へとそのまま直結していく。

■写真上:左は、御留山南麓にある、藤稲荷(藤森稲荷)の社殿。壮大だった江戸時代の面影はない。右は、戦前まで境内があったエリア。江戸期よりもかなり縮小されていた。
■写真中:左上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる、将門相馬邸の敷地と藤(森)稲荷の位置。右上は、1955年(昭和30)に撮影された、荒れ果てた藤(森)稲荷社。下は、『江戸名所図会』に描かれた藤(杜)稲荷社。「同所、岡の根に傍ひてあり。また東山稲荷とも称せり。霊験あらたかなりとて、すこぶる参詣の徒多し。落合村の薬王院奉祀す」と記されている。
■写真下:左は中井御霊神社に残る、宝暦の年号が刻まれた庚申塚。庚申(荒神)伝説が、かたちを変えて江戸期までつづいていたものか。右は、同社内のより古い縁起と思われる八雲社。やはり、出雲神の面影がここでも顔をのぞかせている。