浮世絵の風景画を観ていると、画中の人物へ目が釘づけになることがある。さまざまな作者の絵の中に、どうしても気になる男や女が登場してくる。広重や北斎の風景画中にさえ、景色の一部としてはあまり馴染まず溶けこまない、言わず語らずなにかを主張していそうな人物が描かれていることがある。その人物だけ、画面からポッと浮き上がって見えるのだ。
 清親のいくつかの作品は、その最たるものだろう。赤い裾元を蹴だして白い小股を見せながら、蛇の目をさした女がうしろ向きで歩いていく。作家の杉本章子ならずとも、誰でも視線が集中して気になってしまう女性だ。清親の「東京名所図」のほか、「武蔵百景」などにも気になる人物が多々描きこまれている。
 小林清親(1847~1915年・弘化4~大正4)は、御蔵屋敷勘定方をつとめていた幕臣だが、明治維新で当然のことながら失業してしまった。一時期は、生活のために駿府へと母親を連れて出稼ぎに行っているが、ほどなくふるさとの江戸、いや維新直後の東京(とうけい)へともどり好きな絵を描きはじめる。のちに、「光線派」あるいは「光線画」と呼ばれるようになった作品群だ。彼は、変りつつある江戸東京の姿を描きとめた“最後の浮世絵師”とよく呼ばれているけれど、月岡芳年の門から移ってきた弟子の井上安治が「光線画」を描き継いでいるし、手法は違うが巴水や柏亭もいるので、厳密には“最後の絵師”とは呼べないのではないか。
 
 清親の作品の女性を、彼の慕い人だったと考えるのは、1988年に出版された杉本章子の『東京新大橋雨中図』(新人物往来社)の読後印象が強烈だからだ。杉本はこの女性を、清親が思いを寄せる兄嫁の“佐江”だとしている。でも、わたしには女の蛇の目(「東京新大橋雨中図」中)のさし方や脚運びなどから、のちに自裁するような楚々とした元・武家娘の“佐江”のうしろ姿には見えず、もっと別の、たとえば清親と“わけあり”な町娘のように見えてしまう。物語でいえば、後半に登場する“延世志(お芳)”のような女性だ。
 『東京新大橋雨中図』が出たとき、わたしはさっそく購入して読んだ憶えがある。1枚の絵から、これだけの物語が紡ぎだせるものかと、作者の想像力に舌を巻いた。そしてもうひとつ、江戸ではなく明治の東京を舞台にした小説で、そのまま地元に暮らしてきた市井の人々の視座から時代をとらえている点に、ほかの作品にはない新鮮さを感じて惹かれたからにちがいない。明治政府がこしらえた史観による、妙な「偉人」や「英雄」がひとりも登場しないのが、地域史として親の世代まで受け継がれてきた説話やイメージとぴったり重なり、ストンと腑に落ちた・・・そんな気がした。
 
 
 ザラザラとしたわざとらしい官製の「明治史」などではなく、リアルな地域史としての、地に根の生えた「東京史」を追体験できたような感覚をおぼえたものだ。いつかここでご紹介した亀甲萬の茂木七郎左衛門Click!ではないけれど、田辺聖子が本作の書評でピタリと言い当てているように、「彰義隊で死んだ男たちは精神的な身内」というところから出発している東京の地盤感覚。そして、少し長めのスパンで見る角度を変えれば、会津における「白虎隊」の記憶よりも、およそ執拗で徹底していて、さらに実力行使的で執念深い記憶なのかもしれない。将門が神田明神から追い出されたとき、従来の宮司を即座にクビにして末裔を宮司に迎え、将門を主神へともどすのに1世紀をかけた土地柄だ。杉本章子は、実にうまくその手ざわりを内包させながら本作を描き切っている。
 小林清親と月岡芳年が、踏みにじられ荒さみきった人の心を想って嘆き、街角でおそらく明治官吏を乗せた傍若無人な俥に跳ね飛ばされそうになったとき、ふたりは思わずこう叫んでしまう。
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 芳年は俥を避けようとしてよろめき、清親に支えられながらも、きっとなって、
 「この、明治野郎っ」
 と罵声をあびせかけた。
 「なんです、それは」
 きょとんとして清親は訊ねた。
 「気に入らねえ野郎どものことを、おれはそう呼ぶのさ」
 芳年は裾前の埃を払いながら、言った。
 「なるほど」
 痛快な罵詈に、清親は思わず笑った。(中略)
 自分の描いた明治の三傑の顔を思い出しながら、土埃をたてて走り去る俥の背に向かって、清親は大声で呼ばわった。
 「この、明治野郎っ」                           (同所「根津神社秋色」より)
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 清親の木版「光線画」は、より安価な石版画の普及とともに衰退していく。通常の錦絵であれば、板木(板下)は15枚前後で済むところ、清親の「光線画」はボカシや滲みの手法が多用されるため、25枚前後も板木が必要となる。手間ヒマのかかる「光線画」はコストが見あわなくなり、版元からの注文は徐々に途絶えていった。
 都内を散歩をしていると、狭い道を背後からクラクションを鳴らしながら走り抜けるクルマがある。人に接触しながら、歩道を全力疾走する自転車がある。ついでに、自然や景観や地元の声を無視して、やりたい放題の破壊をしては売り逃げしていく建設業者がいる。こういう同じ穴のムジナたち、現代型「明治野郎」Click!には、どのような罵詈雑言を浴びせてやればいいのだろうか?

■写真上:清親の作品にたびたび登場する、傘をさしながら背を向けて歩み去る女たち。
■写真中上:左は、いまでも入手可能な『東京新大橋雨中図』(文春文庫版)。右は、小林清親『五本松雨中』(1880年・明治13)。よく観ると、この画面の中央にも傘をさしたうしろ姿の女性がいる。
■写真中下:左上から右下へ、『海運橋(第一銀行雪中)』(1876年・明治9)、『東京新大橋雨中図』(同年)、『駿河町雪(三井組)』(制作年不詳)、『大伝馬町大丸』(1879年・明治12)。
■写真下:左は、『隅田川夜』(1877年・明治10)。この絵からも、なにやら人物たちの囁きが聞こえてくる。右は、言問橋から眺めた隅田川上流。清親が描く待乳山は、写真のすぐ左手にある。