都内某所、華族の元屋敷跡に残る長い辻塀。もともと明治期には西洋館建築だった本宅を、昭和初期あたりに和風建築へと建て直しているようだ。本宅のリニューアルの際、西洋館に合わせて造られたレンガの塀を、わざわざ壊さないでそのまま上から塗りこめ、和の屋根塀へと造りかえてしまった。スズキのパイ包み焼きならぬ、レンガの土包み塗りだ。
 よく手入れをされないまま、放置されてきたのだろう、昭和の塀土が剥がれ落ちて、昔日の明治のレンガ塀が大きく顔をのぞかせている。レンガの匂いを嗅ぐと、少し湿っけて饐えたような明治の匂いがした。どんなに丁寧に塗りこめられても、あるいは、どれほど新しい意匠をほどこされようが、なにかの機会にフッと昔の面影が、あからさまに顔をのぞかせる。まるで、歴史を重ねた地層のような塀面に、明治の「化石」が露出したようだ。ちょっとひと皮むくだけで、無数の物語が紡がれてきたこの街のあちらこちらから、昔日の人々のひかえめな囁きが聞こえてくる。東京というのは、そんな街だ。
 冷(おべ)たい※レンガにそっと手を当てると、そんな囁きの声が手のひらへ収斂してくるようだ。せっかく建てた美しい西洋館を、なぜ純和風の建築に変えてしまったのか、代替わりしたせいか、それとも同じ世代の出来事なのか、ものの考え方や価値観が180度変わったからか、それとも単純に洋館が寒かったからだけなのか、レンガ塀を壊さずに塗りこめたのはなにか特別に愛着があったからか、それとも単に建築資金が不足気味だったせいなのか、住人はふだんの装いや生活も洋風から和風へと変わったのか・・・、こんな塀の破れひとつにも、100年以上にわたるさまざまな想いや物語が染みこんでいるにちがいない。

 わたしの会社のビル横、地下駐車場に沿って幅2mほどの狭い道がある。この道はどこへ抜けられるわけでもなく、10mほどつづくとビルの壁面にぶつかり、行き止まりになってしまう。なぜ、こんな中途半端なスペースを残しておくのか不思議だった。ところがある日、江戸時代の切絵図(地図)を見ていて気がついた。この10mほどで行き止まりの小路は、江戸期から変わらず旗本屋敷が連なる中で、ずっとこのままの状態だったのだ。しかも、切絵図の年代をさかのぼっていくと、ここは小さめの猪牙が屋敷へ直接出入りできる、入舟堀のひとつであることがわかった。わかったとたん、小路の上に水面が見えるから不思議だ。
 街中で、ちょっとした過去の“顔”や“かたち”に気がつくと、急にあふれ出すように、そこで暮らし、懸命に生きてきた人々の囁きが聞こえてくる。まるで、見つけられるのを待ちかまえてでもいたように、親の世代の東京が、祖父母以前の江戸東京がそっと入りこんで語りかけてくる。たいがいは、時代遅れのノスタルジックな世間話なのだが、後世に伝えなければならない大切な物語も、けっこう残されているようなのだ。

※親の世代まで、ときどきつかわれていた東京弁下町言葉(日本橋方言)。でも、わたしは山手でも聞いたことがある。山手弁にも、まぎれているのかもしれない。いまでは、お年寄りからもめったに聞かれなくなった。
■写真:ともに港区のお屋敷街にて。