東京には大昔から、小さくて汚い蕎麦屋にうまい店がある・・・という“お約束”がある。別になんらかの根拠や法則性が存在するわけではなく、生簀のある活魚料理屋はマズイ・・・というのと、どこか通じるところがあるかもしれない。生簀のある活魚料理屋だって、今朝とれたばかりの魚を放っていれば、別に身がふやけることもなくうまいのだろうし、大きくて清潔な蕎麦屋が、そろいもそろってみんなマズイとは限らない。
 そういえば、子供のころに親父に連れられて入った蕎麦屋は、おしなべてみんな小さくて汚かった。だが、美味しかった。子供のくせに蕎麦の味がわかるのか・・・といわれそうだけれど、これがなぜかわかるのだ。蕎麦や鰻、寿司、天ぷら、各種すき焼き(明治以前はおもに鴨肉の)、丼物、鍋物などなど、地元のざっかけない食いもんの数々は、なにしろ何世代にもわたって形成された舌を受け継いでいるわけだから、あまり自慢できた代物ではないけれど、これ(御城)下町Click!で培われた、ちょっとばかり貧相な「グルメ」というわけだ。
 別に、とりたてて好きでもないバカっ囃子を聞けば、あら不思議、身体がひとりでにスウィングしはじめるのと、どこか似ているような気がする。岡本綺堂の随筆集『江戸の思い出』(河出書房新社)を読んでいたら、こんな箇所を見つけた。
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 そば屋は昔よりも著るしく綺麗になった。どういうわけか知らないが、湯屋と蕎麦屋とその歩調をおなじくするもので、湯銭があがれば蕎麦の代もあがり、蕎麦の代が下がれば湯屋も下がるということになっていたが、近年は湯銭の五銭に対して蕎麦の盛り掛は十銭という倍額になった。尤も、湯屋のほうは公衆の衛生問題という見地から、警視庁でその値あげを許可しないのである。
 わたし達の書生時代には、東京中で有名の幾軒を除いては、どこの蕎麦屋もみな汚いものであった。綺麗な蕎麦屋に蕎麦の旨いのは少ない、旨い蕎麦を食いたければ汚い家へゆけと昔から云い伝えたものであるが、その蕎麦屋がみな綺麗になった。そうして、大体においてまずくなった。まことに古人われを欺かずである。 (「そば屋」より)
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 銭湯はきれいにこしたことはないけれど、蕎麦屋がやたら店構えが立派だったり、まるで料理屋のようにシャレていたりすると、まゆにツバをつけたくなるのは親父ゆずりなのだろう。「慳貧(けんどん)蕎麦」にこそ、うまい店が多いという伝統。確かに、店は小さくて汚いのだけれど、ハッとするようなうまい蕎麦屋に、いまでもときどき行き当たることがある。
 これは、鰻屋についてもいえることで、小さくてボロボロの名もない「う」に、感心してしまうほどのうまい店が確かにいまでもある。確率としては、山手よりも下町のほうが多いようだ。もちろん、店構えも汚ければ味もうまくない蕎麦屋だってたくさんあるのだけれど、岡本綺堂や親父がそうだったように、構えに凝る店ほど味がおろそかになっている・・・という昔からの“思い込み”は、早々この街では消えそうもない。
 
 わたしには、うどんを食べる習慣がない。関西方面の方にこの話をすると、信じられないような顔をされるのだけれど・・・。先週、うちへ泊まりに来た、大学出たての神戸のお嬢様にそういう顔をされ、悔しいさかい住吉はんの「ケツネうどん」を作って食わしたったら、また信じられんような顔されたで。(爆!) 事実、わが家にはうどんを食べるという習慣はついぞなかった。それは、たとえばマグロの刺身といえば赤身の刺身であって、脂身を食べる習慣がないのと同じだ。これは江戸東京に限らず、関東地方に広く見られる食習慣だと思う。湘南でも、わたしが子供のころはマグロの刺身といえば赤身であり、脂身は魚屋の隙をねらう野良ネコのエサだった。
 江戸期から、マグロの位置づけ自体が下魚であり、おカネがないときに食べるのが赤身(でも、江戸湾を回遊したマグロは安くてうまいので人気はあったようだ)、脂身を食べるのはよほどの貧乏か、物好きで野暮の骨頂といわれてきたからだ。「さつまいも、かぼちや、まぐろははなはだ下品にて、町人も表店住の者は、食することを恥づる体なり」(『江府風俗志』)・・・なんて記録さえ残っている。昔ながらの頑固そうな寿司屋に出かけて、しょっぱなからトロなど注文すると、「どっから来たんだい?」なんて顔をされるのもそのせいだ。食べて「うまい」ものと食べて「美しい」(格好のいい)ものが、必ずしも一致するとは限らない。全国どこにでもある慣習だけれど、この食の“美意識”は、どこかでこの地域ならではの「食文化」として頑固に受け継がれ、わたしの中にもわずかながら残っている。だから、うどんをあえて食おうとは思わないのだ。
 少し前、うちの近所にあった小さくてあまりきれいではない蕎麦屋(もちろん「けんどん蕎麦」だ)が、早稲田に移転してしまった。わたしが味わった目白・下落合界隈の数ある蕎麦屋の中では、もっともうまいと感じた店だった。暮れの年越しも、必ずこの蕎麦屋と決めていた。ところが、下落合の地元では、この“突っけんどん”な蕎麦屋はあまり注目・評価されていなかったようなのだ。おそらく、新乃手と(御城)下町ではうまいと感じる舌の基準も、微妙に異なっているのかもしれない。