この写真は、いつ撮影されたのか正確な記録がない。でも、展示作品の様子から推察すると、1927年(昭和2)6月17日から同30日まで開かれた、1930年協会「第二回展」の会場ではないかと思われる。手前のベンチに腰かけ、足を投げ出しているのは里見勝蔵、その隣りに座っているのが佐伯祐三だ。佐伯の左隣りで足を組んでいるのは、いつも和服の木下孝則のようだ。
 1926年(大正15)5月に開催された1930年協会の「第一回展」に、3月に帰国したばかりの佐伯は「下落合風景」Click!を出品していない。出品されたのは第1次滞仏時の作品ばかりで、もちろん「下落合風景」はまだ描かれていなかった。だが、「第二回展」には1926年(大正15)から翌年にかけて、下落合のアトリエ周辺で描かれた風景作品が、5点ほど出品されている。その内訳は以下のとおりで、作品のタイトルは出展時のもの、キャプションは当該の作品を表している。
 ①「風景」・・・上落合の橋の附近/寺斉橋バージョンClick!
 ②「風景」・・・八島さんの前通り/冬景色バージョンClick!
 ③「落合村風景」・・・門/八島さんの門Click!
 ④「落合村風景」・・・セメントの坪(ヘイ)/諏訪谷大六天Click!
 ⑤「落合村風景」・・・
★のちに①の実物を日動画廊のご好意で間近に拝見し、朝日新聞社版『佐伯祐三前画集』のモノクロ画像とは遠景がまったく異なる風景画であることが判明した。描画ポイントは、またしても「八島さんの前通り」(1927年6月ごろ)であり、詳細はこちらの記事Click!で。
 この中で、写真に写されている作品の2点が、すぐにもどれだか特定できる。ひとつが、写真左側の人物ふたりにはさまれた①、制作メモClick!にみる「上落合の橋の附近」の寺斉橋バージョンだ。そして、その左上に架けられた少し小さめの絵が、②の八島さんの前通りを南に向いて描いた雪景色の「下落合風景」。西坂方面から歩いてきた人物が描かれている。③の「門」と④の「セメントの坪(ヘイ)」も、すぐにどの作品だか特定できるのだけれど、残念ながらこの会場写真には写っていない。
 
 
 問題は、リスト⑤の「落合村風景」。この作品がどのような絵なのか、まったくわからない。のちに「下落合風景」と、シリーズ名で呼ばれるようになった作品の1点であることは間違いないが、描いた風景の様子がわからなかった。ところが、この会場写真にはもう1点、見慣れない風景画が佐伯作品を並べたと思われる壁面に写りこんでいる。それが、写真左端に偶然とらえられた作品だ。
 こんな構図の「下落合風景」を、わたしはいまだかつて目にしたことがない。画面の中央には電柱とともに、大きな西洋館が描かれている。そして、細めの道をはさんで反対側には、樹木か建物のような影がチラリと描かれているらしい。右側には土手か山の斜面のような盛り上がりが見え、それを拓いた切通しのような道が、大きな西洋館のほうへと向かっている。絵の様子からすると、この道は手前へとやや下っている坂道のようだ。
 
 この作品を観て、わたしは旧・下落合のあるポイントをすぐに思い浮かべた。目白文化村ではなく、現在の目白駅に近い下落合側でもない。この作品にも、やはり強い既視感が湧いたのだ。それは、急な六天坂をバッケ下の中ノ(野)道側から上がって尾根に近づくあたり、傾斜がなだらかになった道の右手向うに、佐伯がこれを描いた1926年(大正15)の時点でも、オレンジ色の屋根をしたスパニッシュデザインの大きな西洋館が見えたはずだ。ギル邸にあった黄色いモッコウバラがいまでも咲きほこる、下落合地域に残る近代建築の中でも、わたしがもっとも好きなN邸Click!を南側、つまり六天坂への下り口あたりから描いたものではないか?
 
 もちろん、実際の作品を観てみないと、これが佐伯祐三が描いた「下落合風景」の1作であると断定はできないし、少なくともカラー画像を確認しなければ、西洋館の屋根がオレンジ色であるかもわからない。でも、わたしの中では建物のフォルムと周囲の風情が、六天坂の上で見られたあるポイントへ、とてもスムーズに一致している。この作品も、諏訪谷の「セメントの坪(ヘイ)」と同様の、とても強い既視感(デジャビュ)があるのだ。
 残念ながらこの作品は、講談社と朝日新聞社の『佐伯祐三全画集』にも掲載されていない。1924年(大正13)に竣工したN邸は、戦災をくぐり抜けて美しい姿をいまにとどめているけれど、佐伯の作品はどこかで焼けてしまったのかもしれない。

■写真上:1930年協会「第二回展」の会場を撮影したとみられる写真。
■写真中上:左は、会場に架けられた作品。右は、その当該「下落合風景」作品。
■写真中下:左は、「下落合風景」と思われる作品。右上は、六天坂上にある南側から見たN邸。
■写真下:左は1936年(昭和11)、右は1947年(昭和22)の空中写真にみるN邸あたり。