吉屋信子Click!は下落合時代、生涯でたった一度の異性愛を経験している。相手は、近くに住む若くて気弱そうな画家だった。もちろん、むさくるしくてズボラで、しょっちゅう犬に吠えられている佐伯祐三Click!ではない。第一文化村の北側、府営住宅Click!エリアの松下春雄Click!とまったく同じ住所、下落合1385番地に暮らしていた洋画家・中出三也だったと考えられている。中出は、信子がYWCA時代からの友人である洋画家・甲斐仁代と同棲していたことから、信子はひとつ年上の彼とも知り合ったのだろう。
 ふたりの様子を、林芙美子『落合町山川記』(1933年・昭和8)から引用してみよう。ただし、バッケが原Click!の向うに住んでいる様子は、すでに下落合から1928年(昭和3)に野方町上高田へと引っ越したあとの様子で、林はふたりのことを、結婚している夫婦だと思って書いている。
  ●
 この草原のつきたところに大きな豚小屋があって、その豚小屋の近くに、甲斐仁代さんと云う二科の絵描きさんが住んでいた。御主人を中出三也さんと云って、この人は帝展派だ。お二人とも酒が好きで、画壇には二人とも古い人たちである。私はこの甲斐さんの半晴半曇(はんせいはんどん)な絵が好きで、ばつけの堰を越しては豚小屋の奥の可愛いアトリエへ遊びに行った。
  ●
 甲斐仁代は信子よりも6歳年下で、生活費に困るとアビラ村Click!の信子のもとを訪れては、作品を買い上げてもらっていた。彼女の来訪はリャクClick!とは異なり、信子に歓迎されただろう。仁代の作品自体を信子がお気に入りだったせいか、現在の鎌倉市長谷にある吉屋信子記念館でも、彼女の絵を観ることができる。竹久夢二Click!の作品とは、だいぶ扱われ方が違うようだ。信子は、仁代のことを「色彩の魔術師」と呼んで、オレンジを多用した作品を特に好んだらしい。

 仁代は、『ロシヤの婦人像』(1923年・大正12)で二科に入賞し、二科女性画家の受賞第1号として世に広く知られていた。中出との同棲生活はよほど貧乏だったのか、仁代はしじゅう柔道着を着ており、近所に用事があるときもそのままの姿で外出したようだ。彼女の異様な風体に、当時の人々はあっけにとられただろう。そんな仁代を支援することで、信子はひそかに、好きな中出三也も応援しているつもりになっていたのかもしれない。
 当時の様子を、下落合で信子と同棲していた門馬千代(従来の記述はC女史)は回想している。
  ●
 信子さんは一時期、年若い、とてもきれいなえかきさんを好きになっていたことがありました。お父さんやお兄さんとは、まったく逆のタイプの人で、男の人にしては珍しいくらいおとなしげで、やさしい感じの人でしたねえ。信子さんの作品に出てくる男の人は、美男でどこか気弱で、世間ずれのしていない、大人の男というよりも少年っぽさの残っている、そんなタイプの人が多いのですが、あるいは、そのえかきさんがモデルになっていたのかもしれませんね。
 信子さんは、その人が好きだということを、わたしに気どられまいと、ずいぶん、気を遣っていたようでしたが、でも一本気で嘘のつけない人でしたから、態度やことばのはしばしに出てしまっていましたね、その人に抱いている感情がどんなもんかってことが。ですから、もの思いに沈みはじめると、こちらも気を利かして散歩に出るようにしていました。
 でも結局は、うまくいかなかったようです。           (吉武輝子『女人 吉屋信子』より)
  ●
 でも、この恋は長くはつづかなかった。いくら少年のような面立ちをした“やさ男”とはいえ、しょせんは男であって“女の絆”とは無縁の存在だったのだ。また、のちに中出三也には大きな子供のいることが発覚し、甲斐仁代との同棲生活も解消されることになる。
 
 下落合2108番地にあった、吉屋邸のめずらしい写真を入手した。1928年(昭和3)に発行された『主婦之友』2月号に掲載されている、“お宅訪問”シリーズのひとつだ。吉屋邸は、「婦人之友」社を主催した羽仁吉一・もと子夫妻から借金をしてようやく建てた、ポーチ付きのしゃれた西洋館だった。そのお気に入りのポーチで、編み物をしている信子の姿がとらえられている。ヨーロッパ旅行の直前の写真には、信子の文章が添えられている。
  ●
 よく顔の見えない写真を出すのは、事いささか卑怯未練に似たれども、敢て敵に背を向けたのではなく御覧の通り正面に向いて堂々といともしほらし気に編物をする風情――これがいゝいゝつて皆が申すものですから、何事も自我のない人の言ひなりに従がふ私が此の写真を他選させられた訳です。このしごく天下泰平で陽を浴びて編棒をとつてゐる私の家のポーチにも暫別れを告げて欧州への旅にもう十余日たつと出る身ですゆゑ、この時家のポーチで編物なぞしてゐる姿の写真を見ると、一年余の後無事に旅を終つて又こんな風に呑気に柄になもく(ママ)ポーチで日向ぼつこして毛糸をいぢくる真似が出来ますやうにと神様に祈つてゐます。
 では一寸みなさま行つてまゐります。御きげんやう。
  ●
 
 ちょうどこの年、甲斐仁代と中出三也のふたりは、下落合1385番地から上高田422番地へと転居している。信子の様子に門馬千代が気づいたように、仁代もそれとなく、同棲相手を見る信子の眼差しに気づいたのかもしれない。門馬千代を連れたあわただしい渡欧には、信子のどのような想いが秘められていたのだろうか?

■写真上:下落合の自宅ポーチで編み物をする、『主婦之友』掲載のめずらしい吉屋信子。
■写真中上:下落合の吉屋邸、ポーチの様子がよくわかるショット。キャプションは、「所は目白文化村の、見晴しのよい高台、御自分で御設計になつたといふ小ぢんまりとしたハイカラな、吉屋さんの小説の中にでも出て来さうなお家」となっているが、吉屋邸は目白文化村ではなくアビラ村だ。
■写真中下:左は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる下落合1385番地あたり。このどこかに甲斐仁代と中出三也、そして大正期には松下春雄のアトリエがあった。右は、現在の吉屋邸界隈。
■写真下:左は、鎌倉の長谷に残る旧・吉屋信子邸。右は、裏庭の藤棚に面した信子の書斎で、巨大なデスクが目を惹く。邸の外観は和風だが、室内デザインの多くは洋風に造られている。
★中出三也『城のある町にて-昼さがり-』
三重県松阪市ご出身の辻原生様より、所蔵されている中出三也の戦後作品の画像をお送りいただきました。貴重な画像をありがとうございました。中出三也は戦後、洋画界からは「行方不明」とされる資料も多いのですが、三重県が主催する県展の洋画家部門の責任者をつとめるなど、戦後も引きつづき積極的に制作活動を展開していた様子がうかがわれます。『城のある町にて-昼さがり-』は、4号Fサイズほどの板に描かれたタブローで、辻原様は制作現場の道路を偶然通りかかり、中出三也によって作品が描かれるのを実際にご覧になるという、とても貴重な体験をされています。詳細は、コメント欄をご参照ください。