わたしが大の苦手なのが、これだ。食べものの好き嫌いがきわめて少ないわたしだけれど、めずらしく大(でえ)っキライな食いもんというヤツだ。先祖代々、これがわが家の食卓にのぼることはほとんどなかったはずだけれど、学校給食には「大学イモ」としてときどき登場し、閉口した。口に含むと、唾液が残らず吸い取られ、口蓋がパサパサに乾燥してしまう。どうしても、これがうまいとは感じないのだ。同様に、最中の皮やキナ粉も苦手なのだけれど・・・。
 祖父母以前の世代が、このイモを嫌ったのには、地域の食文化に根ざす美意識Click!や、“薩摩”へのこだわりClick!があったせいなのかもしれない。「さつまいも、かぼちや、まぐろははなはだ下品にて、町人も表店住の者は、食することを恥づる体なり」(『江府風俗志』より)という、この街ならではの格好(かっこ)づけもあっただろう。親の世代がサツマイモをことさら嫌ったのは、代々の美意識が伝わっていたこともあるのだろうが、もうひとつサツマイモをめぐる切実なトラウマがあったのだと思う。それは、戦中戦後を通じて「代用食」としてのいまわしい記憶が、このイモにはついてまわっていたからだ。だから、わたしはかつて、サツマイモを自宅で食べた記憶がない。
 江戸時代の資料を眺めていると、街中で「八里半」とか「十三里」と呼ばれていた焼きイモ屋の記述がときどき見える。もう少しで栗(九里)の風味にとどきそうな「八里半」とか、栗より(四里)うまい「十三里」とかの、江戸のシャレ飛ばしだけれど、わたしはどう贔屓目に考えてもそうは思えない。焼きイモよりは焼き栗のほうが、当然ながらうまいと感じる。イモきんとんよりは栗きんとんのほうがうまいし、サツマイモの菓子よりはマロングラッセやモンブランのほうがうまいと感じるのだ。
 
 最近は、埼玉の川越あたりで採れるサツマイモが有名だそうだけれど、栽培は小石川養生所の薬草園に植えられたというのが最初のようだ。当初は、「薩摩」とも「甘藷」とも呼ばれ、“甘藷先生”こと青木昆陽が飢饉対策の備蓄食料として幕府へ建白し、幕命で試験栽培をはじめたのは有名な話だ。幕府の養生所のほか、上総の不動村と下総の馬加村に試験栽培場が設けられている。
 目黒不動の周辺に拡がる森を散歩していたら、偶然、青木昆陽の墓に行き当たった。まあ、よけいな食いもんを江戸東京へ持ちこんでくれたものだ・・・と思いつつ、いちおうはお参りをしておく。サツマイモは、そのまま食べる用途ばかりでなく、実は医薬品のアルコール抽出や、加工品原料としてのデンプン採集のために、ずいぶん人々の役に立つイモでもあったのだ。また、水飴やブドウ糖の原料としても、長期にわたり貴重な原材料だった。
 
 サツマイモを栽培する農家が、近ごろ激減しているらしい。関東地方の南部でも、作付けをする農家は最盛期の10分の1以下に減っているそうだ。作物として人気がない原因は、より安価で質のよいトウモロコシを原料とするデンプンやアルコールの普及で売れなくなったからといわれているが、バイオ燃料の普及にともなってトウモロコシ不足や価格高騰が心配されるこのごろ、再びサツマイモにスポットライトが当てられる時代がくるだろうか?
 わたしとしては、サツマイモがなにかの原材料として使われるのなら文句は言わないけれど、食卓に上がるのだけは、なんとかカンベンしてほしい。どうしても、これだけは食いたくはないのだ。

■写真上:わが家にやってきた、めずらしいサツマイモ。なんでこんなもんが家にあるのか?・・・とやや気色ばんで訊ねたら、小麦アレルギーの子供たちへ向けた講演実習用の「代用食材」なのだそうだ。江戸期からずっと「代用食」にされつづけたサツマイモは、どこか悲しい存在でもある。
■写真中:左は、『東都歳時記』(部分)にみる焼きイモ屋(八里半)。右は、安藤広重の『名所江戸百景』Click!の第118景「びくにはし雪中」(部分)にみえる焼きイモ屋(十三里)。なぜハッキリと「芋焼」あるいは「薩摩芋焼」と掲げず、「○焼」などと“隠語”化されているかといえば、江戸の街中で売るほうも買うほうも食の趣味や美しさからすると、もう野暮ったすぎて恥ずかしいからだ。
■写真下:左は、目黒不動の真裏の小ぶりな塚上にある小さな祠で、こういうのがとても気になる。もともとは古墳ではないだろうか? 右は、青木昆陽の墓で、「甘藷先生墓」と刻まれている。