仕事が重なり、原稿を書いてる時間がなかなかとれなくなってしまった。(汗)
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 いまから考えると、小学生のわたしはどうかしてたとしか、あるいはちょっとおかしいとしか言えない子供だった。文楽のガブ頭Click!が「ほっし~っ!」と言ったかと思えば、伐折羅大将(新薬師寺)か龍燈鬼(興福寺)が「ほっし~っ!」と言ったりする子供だった。怖さの中に、どこか親しみやすさやユーモラスな匂いのするものが好きだったのだろうか? もっとも、伐折羅は決してユーモラスではない。やがて、伐折羅大将がわが家へやってきた。
 当時、美術誌などの通販カタログでは、当時としては先端素材だった特殊プラスチックを用いた、精巧でホンモノそっくりな仏像の実物大レプリカ販売がブームになっていた。さまざまな仏教美術のレプリカに混じって、伐折羅と龍燈鬼がいた。龍燈鬼は全身像だったけれど、伐折羅大将はもちろん全身ではなく、肩甲骨から上あたりの首像で、しかも前半分をタテに輪切りにしたような壁に架けられる実物大レプリカだ。塑像の表面の、剥離や瑕までが忠実に再現されている。龍燈鬼は、時代色までそっくりに作られた実物サイズのすばらしい出来ばえだった。当時の価格で、伐折羅は6千円、龍燈鬼は5万円ほど。いまの価格に換算すると、それぞれ6万と50万ぐらいだろうか?
 わたしが安いほうの伐折羅を「ほっし~っ!」と言ったら、自分で買えと言われてしまった。それから2年近く、正月を2回はさんで小遣いを必死で貯めつづけ、とうとう小学5年生のころ伐折羅を手に入れることができた。でも、いとしの伐折羅はなぜかわたしの部屋には架けられず、「居間に架けてみんなで観よう」ということになってしまった。それ以来、クワッと口を開けてあたりを睥睨する伐折羅は、宿題をまったくせず学校へ遅刻しそうなわたしをにらみつづけ、家へやってきたお客たちに強烈な印象を残したようだ。ほかにも、親父がどこからか求めてきた広隆寺や中宮寺の弥勒や、戒壇院の増長天(わたしはスーパーボールをぶつけて、これを割って壊した/爆!)などもあったけれど、実物大でそっくりなレプリカは伐折羅だけだったから、わたしは得意になっていた。
 わたしが壁の伐折羅を見あげながらウキウキしていたころ、この像は伐折羅大将ではなくて迷企羅大将だ・・・という論争がどこかで行われていたのを、親父の話として記憶している。当時は、文化庁の国宝登録の記録をベースに、「寺の伝承が間違ってる」なんてことだったのかもしれない。権威あるエライ学者センセたちが集まって、国宝登録の際に規定した名称だから正しい・・・とされたのだろうか。そんな簡単お手軽に、地元に連綿と伝わる寺伝の像名を、変更して規定してしまってもいいのかな? 地元や地域の伝承を無視して、「官」や「公」が“歴史”を作り上げるのは、別にいまに始まったことではない。いまでも、新薬師寺では寺伝の表記をそのまま踏襲しているが、国立博物館あたりで国宝展などが開かれると、伐折羅大将はいきなり迷企羅大将へと改名されてしまうのだろうか?
 
 以前、会津八一Click!が所有していた救世観音(法隆寺夢殿)の石膏型マスクClick!について書いたけれど、さらに信じられないことに、新薬師寺の十二神将像の石膏型マスク(!)が存在するというのだ。十二神将は塑像だから、顔に粘土をかぶせてしまったらダメージは救世観音の比ではない。石膏型が取られたのは戦前、新薬師寺の尼僧をたらしこんだ美術愛好家(ちなみに会津先生ではない、念のため)、十二神将の顔に粘土をかぶせてしまった。新薬師寺の大ファンだった相馬黒光は、『黙移』(法政大学出版局/1977年)の中でこんなことを書いている。
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 (前略)十二神将は薬師如来の周囲にあって守護神として立っているものだと聞いておりますし、また、この寺は元来尼寺ではなく東大寺の別寺で、ある時代に定まった住職がいないで、留守番として円頂の婦人が住職の代わりをしていたのだということ、無論そういう時には若い尼僧の姿も見られておのずとそこに和辻氏の観察を導くものもあったでしょう。私もある美術家が若い尼さんをそそのかして十二神将の二、三点を石膏にとり、その祟りで狂人となって死んだとかいうロマンスも聞いておりますが、もともと尼寺ではなく、現に数年前から福岡隆聖氏(旧姓田島)が住職をしておられるのであります。 (同書「仏像礼賛」より)
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 和辻哲郎の『古寺巡礼』(岩波書店/1919年)の新薬師寺に関する記述を批判して、黒光が1936年(昭和11)に書いた文章だけれど、彼女は特に「静坐」している岡田虎二郎Click!にどこか似ている(?)薬師如来像を気に入っていたようだ。お目めパッチリの新薬師寺本尊は、確かにちょっと他には類例のない特異な表情をしている。さて、ここに書かれている「十二神将の二、三点」とは、はたしてどの像のことだろうか? おそらく、もっとも人気の高い伐折羅は入っていたのではないか。
 
  ちかづきて あふぎみれども みほとけの みそなはすとも あらぬさびしさ (秋艸道人)
 わが家にやってきた伐折羅大将は、その後どうなってしまったのだろうか? 学生時代に親から独立するとき、持って出るのを忘れた。そのまま親父が棄てずにいたとすれば、いまでも箱に入れられてどこかに仕舞われているはずだ。今度、休日にゆっくり伐折羅探しでもしてみよう。

■写真上:顔の右半面よりも、左半面の表情(剥落含め)が好きな伐折羅(バサラ)大将。
■写真中:左が、連綿とつづく地元の寺伝を尊重すれば伐折羅大将。右が、こちらも一方的に因達羅(インダラ)と規定され、神(かん)違いされているような迷企羅(メキラ)大将。
■写真下:左は、お目めパッチリの薬師如来本尊。右は、新薬師寺の本堂大屋根。いずれも、親父の古いアルバムにはさまっていた写真だが、建築の様子を見ると、いまだ修理前のポロポロの状態なので、戦前かあるいは戦後すぐのころに撮影されたものだろう。