八丁土手(日本堤)から、新吉原界隈を散歩してきた。さすがに親父は、子供のわたしを連れ歩いてはくれなかったエリアだ。見返り柳を左手に見ながら、元は編笠茶屋の並んだ「五十間」を通り、おはぐろどぶを越えて大門をくぐった(つもり)。江戸期の黒塗りの大門は、1881年(明治14)にアーチ型の鉄門へと造りかえられたが、大震災以降は照明が載るただの門柱となっていたらしい。もちろん、現在はおはぐろどぶも門も存在しないし、わたしも実際に見たことがない。
 大門をすぎると、引手茶屋がズラリと両側に並んで・・・なくて、柳並木の仲の町(新吉原メインストリート)が、突き当たりの吉原神社や弁天池(花園池)跡のあたりまで通っている。関東大震災のとき、新吉原の南側にあった弁天池へ娼妓たちが殺到し、500人近くが死んだ話は、さすがに親父から聞かされて知っていた。さて、仲の町を歩いていて意外だったのは、乳母車を押した女性や子供たちがふつうに歩いていることだ。一時期のソープランド街と化した面影さえ、いまやなくなりつつある。大門脇にはampmが、仲の町のまんまん中にはサンクスだって開店しているのだ。
 
 いまだ、さまざまなそれらしい看板があちこちに出ているけれど、店名から上のショルダーがすべて削除されている。たとえば、「ソープランド江戸紫」とか「ファッションヘルス小百合」という看板だったのが、「○○○江戸紫」や「○○○小百合」というように、風俗店を思わせるような部分がいっさい消されてしまった。おそらく、周囲の住宅街や学校を意識して配慮した、商店組合の申し合わせなのだろう。だから、ただの店名だけの看板となり、いったいなんの店か一見してわからない。夜間、この場所が新吉原だと気づかない人がブラブラやってきて、「おっ、寿司屋発見、江戸紫とくらぁ」とか「あそこの小百合ってバー、入ってみようか」などということもあるのではないか?
 
 仲の町の並木は桜と決まっていたのに、いまではなぜか柳に植えかえられている。ここの桜並木を描いた浮世絵や図絵、あるいは芝居の書割は数知れない。仲の町を書割にした芝居に、河竹新七(黙阿弥)の『籠釣瓶花街酔醒(かごつるべ・さとのえいざめ)』(通称「籠つるべ」)がある。絹商人の次郎左衛門が、兵庫屋の遊女・八つ橋のもとへ通いつづけ、あげくの果てには「大っキライ!」と愛想をつかされる芝居。八つ橋と兵庫屋を恨んだ次郎左衛門は、ついに名刀「籠つるべ」をひっさげて兵庫屋へと斬りこみ、遊女たちを殺傷するという筋立てだ。この芝居、実はほんとうに新吉原で起きた事件を題材にしている。以前にも書いたけれど、江戸期には大刀や脇差を所有していたのは、なにも武家ばかりとは限らないClick!のだ。おそらく、このような痴情話は戦後すぐのころまで、この街のあちこちに転がっていただろう。

 桜並木の仲の町ならぬ、柳並木をブラブラ歩いていたら、いきなり右手の建物から真っ白いワイシャツに黒づくめ姿のボーイが出てきて、客とおぼしき中年の男性を、迎えのワゴン車へとすばやく誘導する。「お上がりなさいませ!」と、ボーイは客に最敬礼した。「お帰りなさいませ!」は、秋葉原のメイド喫茶の迎え言葉だけれど、新吉原では以前から「お上がりなさいませ!」が客への送り言葉らしい。確かに、「風呂」から上がったばかりなので、「お上がりなさいませ!」なのだろう。いや、それともなにかを「召し上がった」からなのか?(爆!)
 そして、仲の町通りに停められたワゴン車は、その店が手配りした辻駕籠ならぬ、最寄り駅へと客を送迎する、どうやら“シャトルバス”らしいのだ。お昼すぎのやたらまぶしい新吉原、「お上がりなさいませ!」は一度きりしか聞こえなかった。

■写真上:新吉原の仲の町通り。桜並木が“お約束”なのだが、いまでは柳が植えられている。
■写真中上:左は、見返り柳を左に見て・・・。右は、1950年(昭和25)ごろの見返り柳。八丁土手(日本堤)通りから見た光景で、左へ曲がるとおはぐろどぶ、大門から仲の町へとつづいていた。
■写真中下:左は、1853年(嘉永6)作成の尾張屋清七版・切絵図「今戸箕輪浅草絵図」。右は、安藤広重が描いた『名所江戸百景』の第38景「廓中東雲(かくちゅうしののめ)」(部分)。手前に見える桜並木の通りが仲の町で、正面に見える小路は江戸町のいずれかの丁目だと思われる。
■写真下:黙阿弥作の『籠釣瓶花街酔醒』(通称「籠つるべ」)の舞台写真。昭和初期の撮影で、右のうしろ向き次郎左衛門は二代目・市川左団次、左の八つ橋は二代目・市川松蔦。書割には、引手茶屋がズラリと並ぶ仲の町通りが描かれている。このふたりの役者は、稀代の名コンビとして絶賛されたが、くしくも1940年(昭和15)にふたりとも相次いで病没している。