携帯電話を買い換えた。実に、4年ぶりの機種変更だ。それまでは、ほぼ1~2年ごとに変えていたので、わたしにとっては異例の長さだ。理由はカンタンで、パタンとふたつ折りにたたまないで済む好みの機種が、ほとんど見あたらなかったからだ。おかげで、4年前のケータイClick!はボロボロの傷だらけで、すでに耐用年数ギリギリの様相を呈している。わたしはガンコな、ケータイはスリムなままの“折りたたまない派”なのだ。
 なぜ、パタンと折りたたむのがキライなのだろう? たとえば、これがサブノートPCやPDAとなると話はまったく逆になる。わたしのサブノートは、もちろんディスプレイを折りたたむタイプで、タブレット式のPCは、いくらスタイラスペンによるタッチパネル仕様で便利だといっても、まったく使う気がしない。PDAもWindow CEマシンを使っていたときは、あえてサブノートタイプのふたつ折りを選んでいた。どうやらPCやPDAの場合は、きちんとディスプレイを折りたたんで「さあ、仕事が終わった!」・・・と実感しないと、気が済まないらしい。
 きっと、道具としての“らしくない”ところがイヤなのかもしれない。なにかを始める前の、“お約束”の所作や儀式と同じで、サブノートはディスプレイを立てて電源を入れ、電話は手にしたとたんすぐにダイヤルする・・・という、ひとつのスタイル、というか固定観念と身に備わった頑固なクセが、どこかに染みついているのだろう。身のまわりの道具には、あまりこだわらない性質(たち)のはずなのだけれど、こと持ち歩くサブノートとケータイに関しては、どうやら別のようだ。

 学生のころのことだ。親元を離れ下落合の近くにアパートを借りたころ、わたしは秋葉原の輸入家電・雑貨の専門店で、スタイリッシュな電話機に目がとまった。アパートに引かれていた電話は、電電公社の標準機、灰色ともベージュともつかない黒電話よりはマシな、いまから見ると「なんでこんなものが電話?」と思うような重たくて野暮な機械だった。わたしは、それがどうしても気に入らず、別のシャレた電話機をつけたいと思っていたのだ。秋葉原で見つけたのは、確かデンマークで作られた製品で、少し高かったけれど美しいかたちをしていたので手に入れた。
 さっそく、電話機をつけかえてもらおうと公社に電話をして、工事屋さんに来てもらった。そうしたら、工事のおじさんいわく、「お客さん、これ電話線の本数が多いね」・・・。なんとか設置できないかと交渉すると、腕組みしたまま「さあ、線が赤・白・青の3本もあるよ」と言うばかり。それ以来、身のまわりの道具のかたちにこだわるのを、どうやらすっかりやめたらしい。
 
 世の中は変わり、電話機のどれを切ったらいいのか迷う時限爆弾のような3本線に悩むこともなくなったけれど、かわってICT機器が氾濫するようになった。すると、またまたデザインにこだわり始めている自分がいる。デスクトップPCのかたちにはほとんどこだわらないで、無骨な箱型のものを使っている。いまや、ラックマウントサーバやブレードサーバのほうが、よほどスリムでスタイリッシュだ。でも不思議なのは、持ち歩くPCやケータイには、なぜかこだわってしまう。
 きっと、屋内にあるものはデンマークの3本線電話機で懲りているので、せめて身につけて持ち歩けるものには、うるさくこだわってしまうのだろう。そう、“線”のトラウマのあるわたしが、“無線”のサブノートやケータイにこだわっているのが、なによりの証拠だ。

■写真上:予約してかなり待たないと入手できなかった、4年ぶりの新しいケータイInfobar2。
■写真中:くたびれて、もうボロボロの Infobar1。4年間、一度も故障しなかった。
■写真下:左は、千駄木の団子坂上にある旧・安田邸の電話。大正末から昭和初期にかけて普及した、交換手いらずのダイヤルモデルだ。右は、同邸の大きな配電盤。瀬戸物でできた安全器のヒューズの太さから、右側の2つが電力線で、左側の5つが電燈線Click!だろう。