お正月に、小野寺光子さんClick!が描いた、横浜中華街の『古き時代の聘珍樓』カードをいただいた。小野寺さんが描く、繊細なタッチでやさしい色づかいが独特な作品は大好きなので、以前から現代版「下落合風景」を描いてください・・・とお願いしているのだけれど、とてもお忙しくて無理そうなのが残念だ。さっそく、『古き時代の聘珍樓』をデスク横に飾り眺める。
 この絵でとても気になるのが、「聘珍樓」の前に立てられた電柱だ。これは背丈が低く、横木が何本もわたしてあるので、電話ケーブルが数多く架けられた電信柱(電話線柱)に間違いないだろう。いわゆる“電信柱(でんしんばしら)”の語源となった、いまから80年ほど前の架線用支柱の姿だ。電力線や電燈線Click!の支柱とは異なり、電話線の電信柱はコールタールや色を塗られることも少なかったらしく、材木そのままの肌色をしていることが多かった。
 下落合を描いた絵画作品や、撮影された写真にもたくさんの電柱が登場するけれど、大正期の風景に電話ケーブルをわたした電信柱が登場するのはまれだ。たいがいは電力線と電燈線の支柱なのだが、明らかに電話線と思われる電信柱が登場するのは、大正後半から昭和初期にかけてのこと。電源ケーブルを地下の共同溝に収容し、電柱がほとんど存在しなかった目白文化村Click!では、電信柱はかなり目立っただろう。文化村のあちこちに電信柱が登場するのは、電話が普及しはじめた昭和初期のころだ。
  
 電力線や電燈線に比べ、電話ケーブルの電信柱は背がかなり低く、2階屋の軒先ぐらいまでのものが多かった。電話線に限らず、街中をわたる現代の通信ケーブル類の高度は、コンクリート電柱に統合されるようになっても、いまだ低いまま変わらない。これは電力線に比べ、通信線は増設や保守メンテナンス作業が頻繁にあり、電信柱を高くしてしまうと作業効率が落ちるからだろう。
 日本に電話線が引かれたのは、1890年(明治23)の東京-横浜間が最初だ。当初、東京でいち早く電話線が引かれ、電信柱が林立するようになったのは、もちろん繁華街が中心だった。明治末あたりの写真帖を見ると、日本橋や浅草、銀座などで数多くの電信柱を目にすることができる。特に銀座は、せっかく電源ケーブルを地下共同溝へ埋設して通りをスッキリさせたのに、電話の普及とともに電信柱だらけとなってしまった。
 面白いのは、商店街ばかりでなく保守的だと思われる色町が、積極的に電話線を引いていることだ。柳橋や新橋といった料亭街には、早くから電信柱が立ち並んでいる。これは料亭や置屋、茶屋などが、電話によって顧客からの予約をとるためにと、いち早く導入したものだろう。新吉原Click!では、かなり早くから横木を多数わたした電信柱が見られた。今日的な言い方をすれば、さしずめ最先端のICT環境が整備された街・・・というところだろうか。
   
 小野寺さん描く「聘珍樓」本店前の電信柱だが、横浜も東京とともに電話の普及が日本でもっとも早いエリアだ。横浜中華街の各店へ、電話がいっせいに普及しだした大正末ごろの姿だろうか? このころから、今日ではあたりまえとなった宴会や会食の予約を、電話で受け付けるサービスが整っていったにちがいない。

■写真上:左は、小野寺光子さんの『古き時代の聘珍樓』(2007年)。右は、明治末の電信柱工事。
■写真中:左は、第一文化村にあった電信柱で大正末ごろの写真だろう。中は、箱根土地本社の前に立っていた電柱で、おそらくこれも電信柱。右は、新宿・市ヶ谷あたりの通りで、左側に並ぶ高い電柱が電力線または電燈線をわたした支柱で、右側の低いほうが電話ケーブルの電信柱。
■写真下:佐伯祐三が『下落合風景』Click!で描いた電柱の数々。変圧器の載った電力線や、電燈線の支柱はよく登場するが、電話線の電信柱を描いたと思われるものは見あたらない。左から、第二文化村外れおよび二ノ坂の電燈線と、下落合西端および第三文化村外れの電力線の各電柱。