江戸期には、町人は武家に虐げられていた・・・というイメージが強いのだが、実際には大江戸(おえど)の街のあちこちで、町人による武家への暴行事件が発生している。プライドの高い江戸市民の虎の尾を、知らずに誤って踏んづけてしまうと、地方大名の武家はもちろん、地元の旗本といえども袋叩きにあうばかりではなく、ときにはその生命さえも脅かされた。新宿(内藤新宿)にも、そんな事件の伝承がひとつ残っている。
 内藤新宿は、甲州街道のひとつめの宿駅として栄えた街だが、江戸から大江戸Click!へと朱引き墨引きが大きく拡大され、やがては町奉行の支配となって江戸府下へと呑みこまれようとする、江戸中期ごろに起きた事件だ。享保ごろと伝えられているが、武家の次男で斎藤大八という青年がいた。旗本の次男坊で、いわゆる冷飯食らい(厄介叔父)だったのだろう。内藤新宿に軒を連ねた遊廓へ入りびたり、放蕩をつづけていたようだ。おそらく、廓(くるわ)か茶屋だった信濃屋という店の前で、酔っぱらってさんざん乱暴をはたらいた。それを見て、ついにキレた町人たちから袋叩きにあい、半殺しのめにあっている。しかも、町人に腰の大小を奪われるという大恥までかいた。
 斎藤家では大八に切腹を命じ、その首を幕府大目付へと提出して、大八の生命と引き換えに新宿の娼楼街を閉鎖してほしいと上申した。これが幕府に受理され、内藤新宿の廓街は閉鎖されてしまう。新宿の飯盛(めしもり=売春婦)を置く廓街(表向きは宿屋街)は、江戸期に何度も閉鎖を命じられているけれど、それにもめげず幾度となく復活している。この事件も、おそらく閉鎖を命じるきっかけのひとつだったのだろう。このあたりの事情は、同じ宿駅として誕生し、やはり中期に江戸府下へと組みこまれ飛脚伝馬の町として発達する、東海道の品川宿のケースとも似ている。
 
 内藤新宿の遊廓街は、現在の伊勢丹デパートの東隣りを入った、内藤新宿上町の右手にあった。いまでは明治通り(環5)が貫通し、当時の風情は想像すらできないけれど、最盛期には75軒ほどの遊廓が軒を連ねていたといわれる。これらの娼廓(宿屋)は明治以降も営業をつづけ、戦後のいわゆる「赤線」時代までつづいていた。また、四谷大木戸跡近くの「新宿歌舞伎座(大国座)」には歌舞伎(横)丁という、いまの歌舞伎町とはまったく別の小さな歓楽街があったようだ。この歌舞伎(横)丁は、佐伯祐三Click!との関わりで大きな意味を持ってくるのだけれど、それはまた、別の物語。
 岡本綺堂の芝居に、この武家への暴行事件に取材した『新宿夜話』がある。短い芝居で、いまではめったに上演されないし、わたしも実際の舞台を観たことがない。台本を見ると、まるで映画のモンタージュ(カットバック)手法を駆使したような、めずらしい筋立ての近代歌舞伎だ。登場人物も、斎藤大八に父親の斎藤甚五左衛門と、関係者の実名をそのまま借用している。ストーリーは、ほぼ事件伝承の経過どおりで、斎藤家で切腹する大八の回想が、途中でしばしば挿入されるという展開。すばやく動く舞台装置が発達した、明治以降ならではの台本だ。
 
 遊廓が「赤線」と呼ばれるようになった戦後、元・内藤新宿上町あたりにはサロンやカフェ、貸し座敷、バー、喫茶店などが林立して、不可思議な街の姿になったようだ。昼間は閑散とした街角は、夜になるとぜんぜん違う顔を見せたというのだが、わたしはそのころの新宿をまったく知らない。

■写真上:内藤新宿上町は、JR新宿駅の東口から新宿通りを200mほど歩いたところにあった。
■写真中:左は、旧遊廓街に隣接する伊勢丹デパートだが、いまやその痕跡すら皆無だ。右は、1950年(昭和25)ごろの旧・上町あたり。怪しげなカフェが並んでおり、正面の看板は「ビーナス」。壁面には「ビーナスの誕生」とともに蝶(蛾?)のイラストが見え、夜になると光るのだろうか?
■写真下:左は、1862年(文久2)に作成された尾張屋清七版の切絵図「内藤新宿千駄ヶ谷辺図」。右は、岡本綺堂作の『新宿夜話』の舞台写真。切腹しようとしている大八役は三代目・市川段四郎、横で刀を抜く父親の甚五左衛門役は二代目・市川猿之助。