江戸期からつづく東京“名所”の概念に、「花屋敷」という系譜がある。大江戸(おえど)の染井地区Click!で品種改良された艶やかな草木や花々を、屋敷地いっぱいに植えて江戸市民へ公開するという、武家や町人の別なく楽しんだ趣味とボランティア、ときには実益を兼ねたような見世ものだった。いまでも「花屋敷」という名称は、東京のあちこちに伝えられている。
 桜を集めれば「桜屋敷」、梅林を誇れば「梅屋敷」、菖蒲がメインなら「菖蒲園」というように、中心となる草木の名称をとった屋敷や庭園がそこらじゅうに開園していた。その中で、梅の木を中心に集めつつも、それ以外に武蔵野の自然の中に咲く野草木をたくさん集めた、ユニークでめずらしい「花屋敷」が開園した。亀戸の「梅屋敷」に対抗して、骨董屋の佐原鞠塢(きくしま)が文化年間にこしらえた、今日では「向島百花園」と呼ばれている高名な「花屋敷」だ。「新梅屋敷」とも呼ばれた佐原による「百花園」のユニークなところは、造園のコンセプトを当時の太田南畝などの“文化人”たちに依頼したことと、彼らへ梅の木を中心に草木の寄進を依頼している点だ。
 武蔵野の草花や樹木を集めるという、それまで見られなかったコンセプトによる庭園造りなのに、なぜ梅の木だけは特別にこだわったのかといえば、亀戸の「梅屋敷」に対抗する意味もあったのだろうが、梅は果実が得られるので青果市場へ出荷できる、つまり収益を上げられる木なので、その売り上げから園内を管理する植木職人たちの手間賃が捻出できる・・・と考えたらしい。当初は360本もの梅を集めた佐原鞠塢は、なかなか目端がきく商売上手のやり手だったようだ。
 
 隅田川沿いを東に折れ、永井荷風Click!も逍遥しただろう向島界隈を抜けてしばらく歩くと、いまや住宅街の真ん中に百花園が姿を見せる。園の門には、蜀山人が揮毫した「花屋敷」の額が掲げられている。でも、これは復元額で、ホンモノの額はわが家と同日に空襲Click!で灰になってしまった。園内には、江戸期から武蔵野で見られた日本ならではの樹木や草花が、ところ狭しと植えられている。いまや梅の木は少なく、武蔵野の樹木や草花が中心の野草園または自然園といった趣きだ。この敷地には、カントウタンポポやシロバナタンポポは咲いていても、セイヨウタンポポは存在しない。わたしの子供のころにはよく見られた、ヒトリシズカやクマガイソウなども、いまや都内ではめずらしい。そのぶん、維持管理にはたいへんな手間がかかっているのだろう。
 江戸期には、どこの町辻にでも咲いていた草木であり、稀少性や貴重性などみじんもなかったに違いない。それでも集めて「花屋敷」にしたところに、江戸ならではの独特なしぶい美意識や趣味嗜好が感じられる。ケバケバしくて野暮ったいハレ着ではなく、地味だがしなやかでしぶい普段着Click!の美しさに共通する審美眼だ。1ヘクタールほどしかない百花園が、国の名勝史蹟に指定されているのは、いまや園内に咲く草木が都内はおろか、全国レベルで見ても絶滅に瀕している貴重さからにちがいない。外来種や雑草を見分け、貴重な在来種のみを手入れしていくのは、深い知識や経験と技術がなければ不可能だろう。骨董屋が江戸趣味で造った、なにげない身近で日常的な草花の美を愛でる「花屋敷」だけれど、江戸東京の普段着の美しさが稀少になってしまったのと同様に、佐原鞠塢や協力した文化人たちが現状を見たら、どんな感想を漏らすだろうか?
 
 もうひとつ、百花園には草木のほかに大きな見どころがある。わたしがいちばん惹かれたのも、実はそこなのだけれど、江戸期に日本橋川へ架けられていた日本橋の石柱が、そのまま保存されていることだ。(レプリカという説もあるが詳細ははっきりしない) 本所の被服廠跡に建つ震災記念館Click!には、関東大震災前の両国橋の金属プレートが保存されているが、百花園にはもっと古い江戸期の日本橋の名残りが保存されているということになる。
 江戸の火事でも、また震災や空襲でも百花園が生き残ったように、石造りだった日本橋の橋柱も焼けずに、今日まで伝わっているのだろうか。日本橋の欄干は、少なくとも幕末には木製だったはずで、どこかの時期に耐火性のある石造りだった時代があるものだろうか? わたしと血縁の誰かが、ひょっとすると日本橋のたもとで好きな娘と待ち合わせをして撫でたかもしれないその石柱を、わたしもそっと撫でてみる。

■写真上:向島百花園の名物「萩のトンネル」。9~10月になると、花のトンネルをくぐれる。
■写真中:園内の池と、湧水源の近く。下落合の御留山とは異なり、湧水には勢いがある。
■写真下:左は、園内のあちこちに建つ江戸期の文人墨客の石碑。右は、いまに残る日本橋の石柱。「日本橋」の揮毫が徳川慶喜によるものだとすると、明治以降のレプリカということになる。