わたしが子供のころ、祖父がよく「狐火(きつねび)」のことを話してくれた。気温がやや高く、シトシトと雨が降る夜、あるいは雨上がりの日暮れなど、山や丘の中腹に得体の知れない、丸く青白い火(ときには黄色い火)が横へ点々と連なった・・・という逸話だ。光は規則的に明滅したり、連なったまま横方向へ移動したりすると、やがて消えてゆくのだそうだ。当時は、キツネの口で燃える燐(りん)が発光しているのだといわれていた。また、大きなタライほどもある「人魂(ひとだま)」(カネ玉?)が、杉の木のてっぺんにぶつかって火花を散らした・・・なんていうような目撃談も話してくれた。わたしは、残念ながら狐火も人魂(カネ玉)も、いまだかつて見たことがない。
 下落合の周辺には、「狐火」あるいは「狐の嫁入り」というフォークロアがたくさん残っている。かんじんの下落合では、あまりこのテの話は聞かず、その周辺地域に多い。なぜなら、狐火が出るのは目白崖線の裾野か中腹であり、下落合はその“現場”だから見ることができないのだ。狐火の口承伝承は、崖線を離れて眺めることができる上落合や上高田、下戸塚などで語りつがれてきた。
 中野区の教育委員会が編纂した『中野の昔話・伝説・世間話』には、下落合の丘に出る「狐火」あるいは「狐の嫁入り」の話が、正編・続編ともに数多く収録されている。キツネに化かされる話や、キツネ憑きの物語も大量に収録されていて、まるで中野はキツネの里のようなありさまとなっている。昔から上高田や野方、江古田、新井の方面はキツネ地帯、目白や下落合はタヌキの里なのだろうか? 同区の口承文芸調査チームが、明治・大正生まれのお年寄りから長期間かけて採集した、同書はかけがえのない貴重な1次資料だ。
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 川の向こうがですね、御霊神社っていう神社がありまして、で、今は、目白学園って学校になっている。で、学校んなってますから、上を平らにして、木を伐ったりなんかしちゃいましたからねぇ、昔と違いまして、高さが、だいぶ低くなったっていうような気がするんですけどねぇ。昔は、もっと木がうっそうとして、そういう建て物がなかったですからねぇ、かなり高く見えたんですねぇ。/で、上ってくるのも、道が相当ずーっとこう、相当な長い距離で上ってったわけですよね。で、こちらのお氷川様のとこから見ますとねぇ、ちょうどその、目白の妙正寺川の向うの山が、見えるわけです。/それで、点々とその道のところにですね、光が、ポッポッポッとついてね。そいでそれが今度は、初めはポッポッポッてついてたんだけれども、ずうっと一列にね、並んでついて、そいで、あれは狐の嫁入りだって。
                                          (同書続編「世間話」より)
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 この光の明滅や連続現象を、当時の人たちは「狐火」あるいは「狐の嫁入り」と呼んでいたようだ。『中野の昔話・伝説・世間話』の優れているところは、お年寄りから取材した話を大きく編集したり書き言葉に改変せず、しゃべり言葉をそのまま忠実に記録している点だ。当時、この地域の人々がどのような語彙をつかい、どのような方言で話していたのかがわかる貴重な資料となっている。新宿区教育委員会がまとめた『新宿区の文化財(6)伝説・伝承』は、話者の言葉や表現を採用せず、すべて現代の書き言葉に改変されてしまっているところが残念でならない。
 余談だけれど、多くの話し手は「火」や「日」のことを、「し」と発音しているのが興味深い。「ひ」と「し」を混同してしまうのは、いまでは東京弁の下町言葉と思われがちだが、本来は近郊を含む大江戸Click!全域にみられる地場・地元の訛りであって、下町に住む人間のみの“専売方言”ではない。同書の場合は、江戸・明治・大正の豊多摩郡方言だけれど、隣りの北豊島郡も含め、たとえば「いちにいさん・・・」と数えはじめると、「ごうろくひち・・・」と発音するのは、下町方言(わたしのは親父ゆずりの日本橋方言)とまったく同じだ。
 でも、ここで語られている「狐の嫁入り」という表現は、下町のそれの意味合いとはまったくちがっているのがわかる。山や丘に出る不思議な光の明滅、あるいは点々と並ぶ光の連続は、下町でも古くから「狐火」と呼ばれているけれど、「狐の嫁入り」はいわゆる“お天気雨”のことだ。陽が照っているのに雨が降る化かされているような現象を、昔から下町ではそう呼んでいた。
 
 同書に記録された狐火は、上高田から眺めた下落合(中井)御霊神社のある目白崖線の西側だが、バッケ(崖線)の南側でも目撃されている。戦後まで東京護謨(ゴム)株式会社の工場(昭和初期に火災を起こしている)があった、現在の上落合の下水処理場あたりの道を歩いていた、落合火葬場帰りの10人前後の人たちが、工場の背後に連なる丘に狐火がいっせいに点いては消える繰り返しを、同時に目撃している。目撃の位置からすると、この狐火はいまの久七坂から七曲坂のあたり、薬王院から氷川明神にかけてのバッケに出たものと思われる。
 以前にも書いたけれど、下落合の丘上では“お稲荷さん”以外、あまりキツネの逸話を聞かない。上落合には、棲息していたキツネの話が伝えられている。だから、10人もの人々が見た「狐火」は、実は「狸火」だったんじゃないかと、ときどきニヤニヤしながらバッケ(崖線)を眺めたりしている。

■写真上:向田邦子の実家近く、荻窪の天沼八幡境内にある稲荷社コン。
■写真中:左は、目白駅近くの豊坂稲荷Click!。右は、自由学園明日館Click!近くの延寿稲荷コン。
■写真下:左は、大川(隅田川)の大橋(両国橋)を守る東日本橋の川上稲荷Click!コン。右は、三越御用達の向島にある三圍稲荷Click!コンコン。キツネじゃなくて、イヌみたいだよワンワン。