早朝に、ウグイスの鳴き声をよく聞く。いつもその時間帯に目醒めているわけではないのでわからないけれど、おそらく毎日森のこずえをわたり鳴きしているのだろう。江戸東京でウグイスといえば「根岸」、すなわち文字通り「鶯谷」の地名がまっ先に思い浮かぶ。昔から、ウグイスの声の「啼合せ会」や、「根岸の三鳥」でも有名な土地柄だ。
 江戸期にウグイスを飼って、身上(しんしょう)をつぶした家は数知れず、「鶯や百万石もなんのその」なんて川柳まで残っている。加賀・前田家の屋敷Click!でもウグイスを飼っていて、膨大な経費がかかっていた。いい声で鳴く高価なウグイスを飼うことは、謂れの濃い名刀を所有することと同じで、武家町人を問わず江戸期における一種のステータスだったのだ。根岸に暮らした正岡子規Click!や中村不折も、春になると根岸をわたるウグイスの声に耳を傾けていたのだろう。
  飯たかぬ朝も鶯鳴きにけり  子規
 
 幕末以降に恒常化する、根岸の「啼合せ会」へ愛鳥を出品するため、みな血眼になってウグイスの世話に明け暮れた。武家町人の別なく、誰でも参加できるこの鑑評会で1等をとったりすると、1羽が数百両、ヘタをすると千両単位で取り引きされることもあったらしい。だから、いくら百万石の大名といえども、台所が傾きかねないということで、先の川柳が生まれたのだろう。このウグイスの趣味は明治以降もつづき、根岸の「啼合せ会」はますます盛んになっていく。
 ウグイスの狂乱趣味は、目白・下落合界隈とも無縁ではない。江戸期には、もともと御留山が禁猟区だったため、たくさんの野鳥が見られただろうが、清戸道(目白通り)の北側に下屋敷を構えていた、田島橋Click!の由来で有名な安藤対馬守(宝永期は但馬守を受領)もウグイス趣味にはまってしまったひとりだ。もうひとり、明治期の戸田家もウグイスに熱を上げていたようだけれど、こちらは目白の宗家Click!ではなく、宇都宮戸田家のほうだったらしい。

 吉屋信子は、戦時下の鎌倉で老刀自の幽霊に出会う短編『夏鶯』の中で、そんなウグイスのヲタク趣味について書いている。海岸で肥料用の海草拾いをしていた彼女が、空襲警報に驚いて近くの見知らぬ防空壕へと避難するのだが、そのほの暗い穴の中にいたのはウグイスの剥製を前に茶を立てる、白髪の上品な老女だった。
  ●
 また徳川時代、長崎の奉行に転役したお侍が、道中鶯の籠を持たせて、鶯の弱らぬように一日二里か三里ずつ歩いては泊ったので長崎まで百三十日余かかったというお話もございますもの。(寝覚めの里)という名鳥は、閣老安藤対馬守の飼鳥で金百両で買い上げられたと申しますし、(岩雫)の銘のある鶯は宇都宮戸田家で百五十両で買いました。また(天の原)は大老井伊直弼公の飼鳥で二百両だったそうでございます。戸田家の岩雫の二代目が明治十年の頃、華族の戸田忠綱さんの飼鳥で、その頃有名な名鳥だったそうでございます。また、文久年間の役者関三十郎も鶯を愛して、いい鳥を持っていたと申します。 (吉屋信子「夏鶯」・筑摩書房版より)
  ●
 根岸(鶯谷)はウグイスばかりでなく、野鳥が集りやすかったのかヒバリやツルでも有名な土地で、俗に「根岸の三鳥」ともいわれていた。南西に横たわる上野山のせいで気流の変化が激しいのか、午後になるとよく時雨が降ったらしい。いまでも「時雨が丘」という名前が伝えられているけれど、西蔵院の不動堂にある「御行の松」のことを、別名「時雨の松」と呼んだりするのもそのせいだ。歌舞伎の舞踊に、時雨が降りそぼる「御行の松」下で、歴史上の有名人たちが雨やどりをする、オールスターキャストの舞踊『雨舎り』という作品があるが、わたしは一度も観たことがない。
 
 春の暖かな昼下がり、やわらかい時雨が降りそぼる中、薬王院から野鳥の森公園のこずえをわたっていくウグイスの声を聞いたりすると、そのままそぼ濡れていたいと思ったりするのだが、いまから150年ほど前、目白崖線あたりをいい声のウグイスが飛んだりすると・・・
 「やっ、あの啼きだてえと、戸田様か前田様で二百両はかてえな。どこいきゃがった?」
 「これっ、町人、それがしの袴の裾を踏むでない!」
 「おっと、あっちへ飛んでったぜ。おい、野郎ども行くぞい」
 「これっ、羽織を引っぱるでない! 拙者を誰と心得る! 安藤対馬守様の・・・」
 「るせえや、とっつかまえたら殿様へ売りに行ってやるから、すっこんでろ爺さん」
 「じっ、爺さんではない! 安藤家で代々御鳥方を勤める大庭嘉門じゃ!」
 「おきゃがれてんだ、こりゃ三百両てえ啼きだぜ」
 「こ、これっ、わしの少ない髷を引っぱるでない!」
 ・・・というようなウグイス狂想曲が演じられていたものだろうか。でも、吉屋作品に登場する、防空壕の中で茶を喫する老刀自は、ちょっとウグイスの値段にこだわりすぎのような気もするのだが。

■写真上:鎌倉の吉屋信子邸。庭の梅の木に、毎年ウグイスが飛んできていたのだろうか。
■写真中上:左は、鎌倉・吉屋邸の居間から庭を眺める。右は、幕末に作成された「御府内場末往還其外沿革図書」にみる、清戸道(目白通り)北側にあった宝永年間の安藤但馬守下屋敷。
■写真中下:1950年(昭和25)前後に撮影された、根岸の二代目「御行の松」。
■写真下:こちらは下落合の吉屋邸Click!。壁に見える絵は、甲斐仁代Click!の作品だろうか?