太平洋の海底に起因する、プレート型の地震だった1923年(大正12)の関東大震災Click!が下落合界隈を襲ったとき、その被害は東京の下町Click!に比べてはるかに軽かった。倒壊した家屋はわずか2棟のみ、それも江戸期あるいは明治初期に建てられたかなり古い建築だったとみられる。目白文化村では、ほとんど被害らしい被害がみられなかった。でも、神田川や妙正寺川の河岸段丘である目白崖線は、それより70年ほど以前、1855年(安政2)に起きた安政大地震のときはどのような揺れ方をしたのだろうか。
 いま、東京における震災対策の多くは、関東大震災時の被害Click!を前提としている。それは、同震災の時代が新しく、データ類や証言が数多くいまに伝えられているからだ。少し前まで東京の大地震は、安政大地震から関東大震災までの周期(69年周期説)が重視され、おもに太平洋のプレート型地震へと目が向けられてきた。ところが、安政大地震と関東大震災とでは、地震のタイプがまったく異なっていた可能性が、かなり以前から指摘されてきている。
 目白崖線付近における関東大震災の揺れ方は、東京の旧・城下町の揺れに比べれば確実に小さかった。しかし、安政大地震のときの揺れは、関東大震災のときとはまったく様相が異なっていたようだ。安政大地震は、どうやら地下活断層のズレによる、大江戸(おえど)の直下型地震だったらしいことがわかってきている。関東大震災のとき、津波は太平洋沿岸の町村に次々と押し寄せたが、安政大地震のときは外洋ではなく、東京湾内を津波が襲っている。地震の揺れも、山手は下町に比べて同等か、それ以上だった印象を受けるのだ。
 
 落合地域における安政大地震の揺れ方について、貴重な伝承を見つけた。中野区教育委員会がまとめた、『続中野の昔話・伝説・世間話』(口承文芸調査報告書)の中に、安政大地震と関東大震災の双方を経験した、お年寄りによる証言の聞き書きが採集されている。
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 金三郎じいさんや、ぼくのおやじが、よく言ってましたよ。井戸がね、昔は、木のね、四角の枠がこうなってて、あれがね、三尺動いたっていうの。安政の大地震は。三尺ね、あれからこっちに動いちゃってるんですって。/そこへくると、まだね、こないだの大正十二年の震災は、そんなほどでない。安政は、きっとね、マグニチュード何だなんて、わからないだ。こないだ東京で七度っていうから、もっとそれ以上かもしれないねぇ。そう言ってましたよ。金三郎じいさんが、そう言ってた。/安政の地震はねっ、こんなもんじゃないんだと。もっとね、今でも昔の家でもこう四角いつるべでやってたですけど、そのあれが三尺動いたと。三尺っていうと、このぐらい動いちゃったんでしょうねぇ、横に。ええ、言ってましたよ。 (同書「世間話」より)
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 頑強に組まれた井戸の井桁が飛び出し、90cm以上も横にズレている様子が伝えられている。重要なのは、安政大地震を経験した「金三郎じいさん」や「おやじ」さんが、関東大震災に遭遇して安政型は「こんなもんじゃないんだ」と証言している点だ。つまり、安政大地震と関東大震災とでは、揺れ方がまったく違っていたことの直接証言ということになる。
 
 関東大震災は長く激しいヨコ揺れによる破壊だったが、安政大地震は激しいタテ揺れによる破壊を示唆している。東京湾に津波が押し寄せたのも、真下を走る活断層のズレを直感させる。東京における「郊外住宅地」や「田園都市」の形成は、関東大震災による下町人口の流入という側面が大きい。つまり、住宅が密集して揺れの激しかった「危険地帯」を逃れ、揺れの少ない「安全地帯」への流れのはずだった。ところが、新山手を形成する「郊外住宅地」の多くは、安政大地震タイプの震災をまったく経験していないことになる。
 地元界隈に伝わる安政大地震の記憶をたどると、少なくとも目白崖線界隈の落合地域では、関東大震災タイプよりも安政タイプのほうが、はるかに危険かつ怖い揺れ方をするのではないか。

■写真上:左は、安政大地震の直後に数多く描かれた、地震封じの鯰絵(なまずえ)。右は、本所の復興記念館に残る、地震計の針が振り切れた関東大震災の激しい横揺れ。
■写真中:左は、中野区教育委員会が1989年(平成元)に発行した『口承文芸調査報告書/続中野の昔話・伝説・世間話』。右は、安政大地震による被害の様子を伝える読売(瓦版)。
■写真下:左は、いまでも下落合のあちこちに残る井戸。安政大地震の直前、水位の急激な変化はみられたのだろうか? 右は、数万年かかって堆積した段丘の目白崖線。地盤が固いのは、海底プレート型のヨコ揺れには強いようだが、直下型の活断層型のタテ揺れ地震にはどうだろうか。