大正期、まだガスが引かれていない旧・下落合の目白文化村Click!や、さらに西のアビラ村Click!(芸術村)では、家庭内の調理機具や暖房などの設備を電気製品でまかなうことが多かった。ちょうど、箱根土地によって第一文化村から第二文化村が建設されている1922~23年(大正11~12)ごろ、目白駅の東側にも“オール電化”の住宅が出現している。高田町字高田1417番地に建設された、早大教授・山本忠興の自宅だ。その昔、四世・鶴屋南北が『東海道四谷怪談』の舞台Click!に設定したあたりで、当時は樹木が繁る斜面があたり一面に拡がっていた。
 山本は、早くから電気工学の重要性を唱えつづけ、早大の理工学部に初めて電気工学科を創設した人物として知られている。いまでも、早大が所蔵する沿革資料には、山本関連のものが数多く残されている。彼が建てた“オール電化”の住まいについても、貴重な住宅アルバムとともに資料類が保存された。山本は、自邸のことを「電気の家」と名づけている。
 
 山本の自宅が建設されたのは、学習院のすぐ西側、金乗院(目白不動)Click!の墓地があるバッケ(崖線)のすぐ上だ。当時の理工学部(本学キャンパスの北門内側)へは、神田川の面影橋Click!をわたって、歩いても10分ちょっとの距離だったろう。山本邸を設計したのは、彼の従弟で大正期の西洋住宅を数多く手がけていた、「あめりか屋」設計部の技師長だった山本拙郎だ。いわば、当時の「文化住宅」建設に関しては、豊富な技術やノウハウを蓄積している、もっとも進んだエキスパートチームへ建築を依頼したことになる。
 山本教授の、電気製品に対するこだわりは徹底していた。電気レンジや電気オーブン、電気冷蔵庫、電気ストーブ、電気洗濯機、電気トースター、電気掃除機、パーコレーター(電気コーヒーメーカー)、電気フットウォーマー、電気ミシン、電気アイロン、電気扇風機、はては電気座布団などまで、邸内には家電製品があふれていた。電気座布団を除き、今日では身近な家電ばかりなのだけれど、時代が1922年(大正11)ごろというのがスゴイのだ。これらの家電製品は、ほとんどがいまだ国産化されておらず、海外製品(おもに米国製か?)を導入していたと思われる。
 
 
 ちなみに、目白文化村やアビラ村のキッチンでも、資料写真でよく見かける電気オーブンや電気レンジだけれど、米国のウェスチングハウス社製のもので、当時はなんと650円の値がついていた。大卒の初任給が40~50円ほどの時代だから、実にその14~16ヶ月分ということになる。今日の感覚でいうと、300万円前後ぐらいだろうか。高級国産車を、ゆうに買えてしまう値段だ。そればかりでなく、毎月のランニングコストもたいへんだったろうし、なによりも一度故障してしまうと、修理には膨大なコストと手間がかかったにちがいない。
 
 大正期、東京の市街地には早くからガスが引かれていたけれど、東京の郊外、特に山手線が走る西部の外側域には、ガス管の普及が遅れていた。だから、旧・下落合の西部では家電製品による「電気の家」仕様がむしろあたりまえで、ガスのない生活がしばらくつづくことになる。でも、山本邸に関していえば、目白駅も近く山手線の内側域なので、すでにガス管が引かれていた可能性が高い。それでも、生活インフラに安価なガスを引かず、当時はコストパフォーマンスの低い電気の暮らしをつづけていたのは、彼の学問上のこだわりと“趣味”によるものだろう。
 それとも、文化村の多くのキッチンがそうだったように、最先端の電気調理器具と七輪や薪・石炭による炊飯竈とが、隣り合って共存していたものだろうか。

■写真上:左は、高田町の高台にあった山本忠興邸。右は、同邸へと通う金乗院山門の坂道角。
■写真中上:左は、山本忠興早大理工学部教授。右は、家電製品があふれる邸内の様子。
■写真中下:上左は、1926年(大正15)の「高田町住宅明細図」。上右は、1936年(昭和11)の空中写真にみる山本邸。戦後すぐの写真には異なる邸がみえるので、戦前にはすでに建て替えられている。下左は、従弟の山本拙郎邸。山本忠興邸のすぐ北隣りの敷地、高田町千登世1番地に自邸を建設している。下右は、あめりか屋の技師だった山本拙郎。
■写真下:左は、四ノ坂上にあった島津源吉邸Click!の台所。換気扇の横から太い電力線が引きこまれ、最先端の電気レンジが置かれている。右は、第一文化村の箱根土地取締役(堤康次郎の義弟)だった永井外吉邸。電気コンロも見えるが、炊飯竈は昔風の焚きつけ式のものだ。